烏丸御池遺跡(からすまおいけいせき)は、縄文時代末期から古墳時代の集落の遺跡
平安時代には、後鳥羽上皇の押小路殿の園池があった跡地でもある
烏丸御池の東北角に石標が立てられている
烏丸御池遺跡(からすまおいけいせき)は、縄文時代末期から古墳時代に烏丸御池附近を中心とした、
南北約600m、東西約800mという広い範囲にわたる集落の跡
烏丸丸太町遺跡(ここから約700m北)とともに平安遷都以前の集落遺跡
発掘調査によって、弥生時代の住居跡や古墳時代の遺物などが発見されている
鴨川扇状地上に位置し、北東から南西に向かって緩やかに傾斜する地形に立地しており、
弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡である烏丸御池遺跡が形成されていた
平安京への遷都に伴い、
この地は、北は三条大路、南は六角小路、東は高倉小路、西は東洞院大路に囲まれた左京四条四坊一町となる
現在の御池通は、平安京の二条大路と三条大路の間を通っていた三条坊門小路に相当する
平安時代後期
1058年(皇紀1718)天喜6年
東洞院大路の東・六角通の北の藤原光忠の邸宅が火災により焼失している
北隣の三条四坊四町は、
平安時代末期には、後白河天皇の皇子 以仁王と、皇女 式子内親王が住んでいた高倉宮跡の推定地
室町時代以降は尼門跡寺院 曇華院が営まれていた
東隣の四条四坊八町には待賢門院御所が存在していた
東洞院通近辺には鎌倉幕府京都守護の平賀朝雅の宿所があったといわれる
応仁の乱以後、
京都の市街地は縮小していき、「上京」と「下京」の二つの町が形成され、
それぞれ上京惣構・下京惣構により周囲が囲まれていた
下京惣構は、北は二条大路、南は樋口小路、西は堀川小路、東は高倉小路付近までといわれる
この地は、下京惣構の南北中央の東限付近に推定される
烏丸御池東北角の歩道に烏丸御池遺跡・平安京跡の石標が置かれている
<石標「烏丸御池遺跡・平安京跡」>
建立年:2000年(皇紀2660)平成12年11月22日
建立者:京都市
大きさ:高さ101cm × 幅105cm × 奥行15cm
碑文:
(西面)烏丸御池遺跡・平安京跡
この交差点付近は、縄文晩期~古墳時代の土器が多数出土することから、
有史以前より集落が営まれていたことが推定され、地名をとって烏丸御池遺跡と呼んでいる。
この碑が建つ地点は、平安京では左京三条三坊十四町と十五町の間の三条坊門小路にあたり、
付近は当時の一等地であった。
中でも交差点北西角の地には、後鳥羽上皇の押小路殿に始まる著名な園地があり、
そのため三条坊門泉殿などの別名で呼ばれていた。
今、ここを東西に走る御池通は、神泉苑の前を通ることに因むというのが通説だが、
『坊目誌』ではこの泉殿の園地に由来するという説が掲げられている。
その後も付近は高級住宅街として、足利一門の邸宅が存在したが、
戦国時代には、この辺りにも砦や城が幾つも構えられ、泉殿の跡には織田信長の宿館が作られた。
これらは本能寺の変の際にもその舞台の一つとなったと伝える。
江戸時代になると、金座・銀座などが集中して金融街へと変貌し、
その賑わいは、現在でも近代建築の多く残る三条通や烏丸通のオフィスビル群に見ることができる。
(台座碑文)
CN5周年記念 京都烏丸ライオンズクラブ寄贈
2000.11.22 京都市
2019年(皇紀2679)平成31年3月4日から6月1日
千切屋株式会社社屋新築工事に伴い、
公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所により埋蔵文化財調査が行われている
平安京左京四条四坊一町の東端部にあたる地域で行われた
平安時代の高倉小路の西側溝とこれに並列する塀と門
室町時代の塀と門
室町時代後期から桃山時代の下京惣構の堀
江戸時代の石室・坩堝を壁材とした地下室・井戸
などが見つかった
高倉小路西側溝の規模が把握でき、
第3面で検出した溝が桃山時代の下京惣構の堀であることが判明した