平安京は、当時の、山背国(やましろこく)の愛宕(おたぎ)、葛野(かどの)の両郡にまたがる地に建設された
南北約5.2km、東西約4.7kmの長方形に区画された
現在の京都市の中心部ではあるが、大内裏は、現在は市街地に埋もれてしまい、
中心となる朱雀大路は、現在の千本通にあたり、現在の中心的な烏丸通から西にづれた位置にあたる
京域北限の一条大路は、現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通
京域南限の九条大路は、現在のJR京都駅のやや南の九条通
京域東限の東京極大路は、現在の寺町通
京域西限の西京極大路は、現在の葛野大路にあたる
平安京の中央部を南流していた鴨川は、河川流路の改修により都の東辺に移動され、
西を流れる桂川と共に重要な水上交通路となった
<四神相応之地>
都の場所の選定については、中国から伝わった風水に基づく地相占い「四神相応」により「吉」と出たことで決定付けられた
<鬼門>
平安京には、王城の鬼門を封じるために、多くの神社・寺院などがおかれている
京都御所の猿ヶ辻
延暦寺
赤山禅院
吉田神社
八大神社
松ヶ崎大黒天
幸神社
<裏鬼門>
城南宮
石清水八幡宮
壬生寺
<北闕型都市(ほつけつがたとし)>
中国の長安城をモデルにし、大きさは長安城の約1/3
平安京は、京域の北端中央に大内裏を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して左右に分けられ、左京と右京が置かれる
朱雀大路を中心として南北約5.2km、東西約4.7kmの長方形となっている
<大内裏(平安宮)>
朝堂院、豊楽院などの行政庁や、宮内庁が集められたところ
京域の北端中央に位置し、南北約1.4km、東西約1.2km
大内裏の南面の中央が朱雀門で、そこから南に朱雀大路が京域南端の羅城門までのびていた
<朝堂院>
国家の重要儀式が行われた建物群
<大極殿>
朝堂院の正殿で、平安宮の中でも最も大事な建物であったといわれる
<豊楽院>
公式の宴会場とされた建物群
<内裏>
天皇の御所となるところで、大内裏の中央東寄りに位置する
<紫宸殿(ししんでん)>
内裏の正殿で、公事や重要な儀式が行われた建物
<清涼殿(せいりょうでん)>
天皇の日常生活を送っていた住居
<弘徽殿(こきでん)>
清涼殿の北に位置し、皇后、中宮、有力な女御などが住んでいた建物
<宜陽殿(きようでん)>
紫宸殿の東にあり、楽器や書籍などの歴代の御物が保管されていた建物
<長安城と洛陽城>
平安京の南北に幅85mの朱雀大路(現在の千本通)が造られ、右京と左京に分けられる
右京を「長安城」と称され
左京は「洛陽城」と称された
<条坊制>
左京、右京の両京は、大行政区になっており、それぞれに「京職」が設置されていた
さらにこの大行政区は、大路と小路により「条」「坊」に区切られる
1条を4坊に分け、1坊を4保に、1保を4町(約120m四方)に分けることで、1条は64町となる
<京職>
律令制における首都の行政機関で、行政・治安・司法・租税・交通など一切を統括する
平安京を東西「左京」・「右京」の大行政区に分けられ、
それぞれに京職が置かれ、「左京職(さきょうしき)」・「右京職(うきょうしき)」と称された
<路地の規格>
大路は、5つの規格の幅で作られた
朱雀大路の85m、二条大路の50m、36m、30m、24mとなっている
小路は、すべて12mである
<禁苑>
禁苑とは、特権階級だけが入ることを許された遊興の場
現在の二条城前にわずかに残る神泉苑が、禁苑とされていた
東西二町南北四町(東西250m南北500m)の広大なものであった
<鴻臚館>
外国使節の宿泊などの接遇を行う施設
羅城門の北、朱雀大路の左右の二ヶ所に設けられていた
<造酒司>
律令制により宮内省に置かれた役所
天皇、中宮などへの供御、朝廷の諸節会、神事に用いられるお酒・醴(あまざけ)・お酢などを醸造した
<奨学院>
諸王・公家・貴族・皇別氏族(源氏・平氏・在原氏など)の教育機関で、私設学寮の一つ
大学の寄宿施設である大学別曹の一つ
<「池亭記」>
平安時代の儒学者で漢詩文の大家 慶滋保胤の著
平安京の中で、右京が早くもすたれていく様子が書かれている
<平安通志>
60巻、京都市参事会の編纂・発行
東寺南大門と春日小路以北の堀川を基準に、1/8,300の京都市街図上に平安京を再現し、著名な寺社・邸宅の位置が比定される
1895年(皇紀2555)明治28年
平安遷都千百年紀念祭の付帯事業
湯本文彦が編纂委員会主事を担当
法的には、
794年(皇紀1454年)延暦13年に桓武天皇の平安遷都令が出されて以来、現在に至る
天皇による東京遷都の詔勅は出されておらず、東京が首都である法的根拠は無いとされている
形式的には、
1869年(皇紀2529年)明治2年の明治天皇の東京行幸(天皇の居住地の移転)まで約1100年間、日本の都であった
天皇の在所を示す「高御座」は、現在も京都御所におかれている
実質的には、
行政府としての機能を持ち宮都として栄えたのは、鎌倉時代前期までのほぼ240年間