後鳥羽天皇(ごとばてんのう)(Gotoba Tennou)

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇

生年:1180年(皇紀1840)治承4年7月14日
崩御:1239年(皇紀1899)延応元年2月22日
宝算:60

諱:尊成親王(たかひらしんのう)(たかなりしんのう)

父親:第80代 高倉天皇
第4皇子
母親:坊門殖子(坊門信隆の娘)(七条院)

即位:1183年(皇紀1843)寿永2年8月20日
譲位:1198年(皇紀1858)建久9年1月11日

元号:仁安・嘉応・承安・安元・治承

先代:安徳天皇(異母兄)
次代:土御門天皇

中宮:九条任子(宜秋門院)(九条兼実の娘)
女院:源在子(承明門院)(源通親養の娘)、高倉重子(修明門院)(高倉範季の娘)
皇子:土御門天皇、順徳天皇ほか

別称:後鳥羽上皇、後鳥羽法皇
院号:後鳥羽院(ごとばいん)、顕徳院

陵墓:後鳥羽天皇大原陵(おおはらのみささぎ)

 後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇

 平家の動乱の中で、三種の神器を失い、三種の神器を持たずに即位する

 治天の君として、土御門天皇・順徳天皇・仲恭天皇と3代23年間にわたり上皇として院政を敷く

【後鳥羽天皇の経緯】

【後鳥羽天皇ゆかりの地】

 <後鳥羽天皇大原陵
 三千院の裏(北側)、勝林院の南にある

 <高山寺
 1206年(皇紀1866)建永元年
 後鳥羽上皇から、華厳宗の僧 明恵上人が34歳のときに下賜され、「華厳宗復興の道場」として再興する

【その他】

 <新古今和歌集
 「新古今和歌集」の編纂を命じ、自らも親撰に当たった

 <百人一首第99番
 「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は」

 <隠岐本新古今集>
 配流後に、独自の切り継ぎにより編纂される

 <家集「後鳥羽院御集」>
 <歌論「後鳥羽院御口伝」>

 <三種の神器>
 1210年(皇紀1870)承元4年
 平家が、安徳天皇と三種の神器を持って西国に逃れ、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡したとき、
八尺鏡、八坂瓊勾玉は回収されるが、草薙剣だけは海中に沈み、その後、何度か捜索されたが回収されることはなかった
 後鳥羽天皇は、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま即位し、治世を過ごすことになる
 1210年(皇紀1870)承元4年
 順徳天皇を即位させたとき、後鳥羽上皇は、三種の神器が京都から持ち出される前月に伊勢神宮から後白河法皇
献上された剣を宝剣とみなすこととする

 <承元の法難
 「建永の法難(けんえいのほうなん)」とも称する
 1206年(皇紀1866)建永元年
 後鳥羽上皇が熊野神社参詣の留守中に、後鳥羽上皇が寵愛する側近の松虫と鈴虫が、御所から抜け出し
鹿ヶ谷にて行われていた念仏法会に参加
 出家を懇願し、後鳥羽上皇の許可を得ないまま、安楽房と住蓮房により剃髪が行われる
 更に、彼女たちは説法を聞くために彼らを後鳥羽上皇不在の御所に招き入れ、そのまま泊めたとされる
 1207年(皇紀1867)建永2年2月
 憤怒した後鳥羽上皇は、専修念仏の停止(ちょうじ)と、住蓮房・安楽房に死罪を言い渡す
 その後も怒りの治まらない後鳥羽上皇は、法然上人親鸞聖人を含む7名の弟子を流罪に処する

 <後鳥羽天皇の呪い>
 承久の乱の後、朝廷を掌握した幕府は「後鳥羽天皇系の即位は認めない」として、高倉上皇、後堀河天皇を立てる
 後高倉上皇は、2年足らずで崩御、後堀河天皇も上皇になり2年ほどで崩御
 四条天皇は、幼くして自ら敷いた滑石で誤って転倒し崩御する
 後鳥羽法皇は、崩御後に「顕徳院」と諡号が贈られるが、「徳は怨霊を呼ぶ不吉な字である」として「後鳥羽院」と改められた
 以降、「徳」の字を含む謚号を贈られた天皇はいない


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