二条河原の落書(にじょうがわらのらくしょ)

時代:鎌倉時代滅亡後の建武の新政時代

収録:建武年間記(建武記)

文書:88節

所在地:鴨川の二条河原(現在の二条大橋付近)   名所地図情報名所

 二条河原の落書(にじょうがわらのらくしょ)は、後醍醐天皇建武の新政当時の混乱する政治・社会を批判、風刺した
七五調の文書


 建武政権の政庁(二条富小路)の近くの鴨川の二条河原(現在の二条大橋付近)に掲げられたといわれる

 室町幕府問注所執事の町野氏に伝わる「建武年間記(建武記)」に収録されている文

 88節に渡り、最高傑作と評価される落書の一つ

 著者は不詳、建武政権に不満を持つ京都の僧か貴族、京童(京都市民)ともいわれる

【二条河原の落書の歴史・経緯】


【二条河原の落書の本文】

 此比(このころ)都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨(にせりんじ)

 召人(めしうど)早馬虚騒動(そらさわぎ) 生頸(なまくび)還俗(げんぞく)自由(まま)出家

 俄大名(にわかだいみょう)迷者 安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ)

 本領ハナルヽ訴訟人 文書(もんじょ)入タル細葛(ほそつづら)

 追従(ついしょう)讒人(ざんにん)禅律僧 下克上(げこくじょう)スル成出者(なりづもの)

 器用堪否(かんぷ)沙汰モナク モルヽ人ナキ決断所

 キツケヌ冠(かんむり)上ノキヌ 持モナラハヌ笏(しゃく)持テ 内裏マシハリ珍シヤ

 賢者カホナル伝奏ハ 我モ我モトミユレトモ

 巧ナリケル詐(いつわり)ハ ヲロカナルニヤヲトルラム

 為中美物(いなかびぶつ)ニアキミチテ マナ板烏帽子(えぼし)ユカメツヽ 気色メキタル京侍

 タソカレ時ニ成ヌレハ ウカレテアリク色好(いろごのみ)

 イクソハクソヤ数不知(しれず) 内裏ヲカミト名付タル

 人ノ妻鞆(めども)ノウカレメハ ヨソノミル目モ心地アシ

 尾羽ヲレユカムエセ小鷹 手コトニ誰モスエタレト 鳥トル事ハ更ニナシ

 鉛作ノオホ刀 太刀ヨリオホキニコシラヘテ 前サカリニソ指ホラス

 ハサラ扇ノ五骨 ヒロコシヤセ馬薄小袖

 日銭ノ質ノ古具足 関東武士ノカコ出仕

 下衆(げす)上臈ノキハモナク 大口(おおぐち)ニキル美精好(せいごう)

 鎧直垂(ひたたれ)猶不捨(すてず) 弓モ引ヱヌ犬追物(いぬおうもの)

 落馬矢数ニマサリタリ 誰ヲ師匠トナケレトモ

 遍(あまねく)ハヤル小笠懸(こがさがけ) 事新キ風情也

 京鎌倉ヲコキマセテ 一座ソロハヌエセ連歌

 在々所々ノ歌連歌 点者(てんじゃ)ニナラヌ人ソナキ

 譜第非成ノ差別ナク 自由狼藉ノ世界也

 犬田楽(いぬでんがく)ハ関東ノ ホロフル物ト云ナカラ 田楽ハナヲハヤル也

 茶香十(ちゃこうじっしゅ)ノ寄合モ 鎌倉釣ニ有鹿ト 都ハイトヽ倍増ス

 町コトニ立篝屋(かがりや)ハ 荒涼五間板三枚

 幕引マワス役所鞆 其数シラス満々リ

 諸人ノ敷地不定(さだまらず) 半作ノ家是多シ

 去年火災ノ空地共 クソ福ニコソナリニケレ

 適(たまたま)ノコル家々ハ 点定(てんじょう)セラレテ置去ヌ

 非職ノ兵仗ハヤリツヽ 路次ノ礼儀辻々ハナシ

 花山桃林サヒシクテ 牛馬華洛ニ遍満ス

 四夷ヲシツメシ鎌倉ノ 右大将家ノ掟ヨリ 只品有シ武士モミナ ナメンタラニソ今ハナル

 朝ニ牛馬ヲ飼ナカラ 夕ニ賞アル功臣ハ 左右ニオヨハヌ事ソカシ

 サセル忠功ナケレトモ 過分ノ昇進スルモアリ 定テ損ソアルラント 仰テ信ヲトルハカリ

 天下一統メツラシヤ 御代ニ生テサマザマノ 事ヲミキクソ不思義ナル

 京童ノ口スサミ 十分一ソモラスナリ


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