向井去来(むかいきょらい)(kyorai Mukai)

江戸時代前期の俳人

生年:1651年(皇紀2311)慶安4年
没年:1704年(皇紀2364)宝永元年9月10日
享年:54

本名:向井平次郎
幼名:慶千代
通称:嘉平次、平次郎
諱:兼時
字:元淵
別号:義焉子、落柿舎

蕉門十哲の一人

あだ名:西国三十三ヶ国の俳諧奉行

出身:肥前国(現在の長崎市興善町)
墓所:落柿舎の裏

 向井去来(むかいきょらい)は、江戸時代前期の俳人

 松尾芭蕉が滞在し「嵯峨日記」を執筆した嵯峨野落柿舎を別邸として建立する

 松尾芭蕉の指導のもと、野沢凡兆と松尾蕉風の撰集「猿蓑(さるみの)」を共編した蕉門十哲の一人

【向井去来の歴史・経緯】

【向井去来】

 向井去来(むかいきょらい)は、江戸時代前期の俳人

 松尾芭蕉が滞在し「嵯峨日記」を執筆した嵯峨野落柿舎を別邸として建立する

 松尾芭蕉の指導のもと、野沢凡兆と松尾蕉風の撰集「猿蓑(さるみの)」を共編した蕉門十哲の一人

 <去来抄(きょらいしょう)>
 松尾芭蕉からの伝聞、蕉門での論議、俳諧の心構え等をまとめた俳諧論書
 芭蕉研究の最高の俳論書とされる
 「俳諧の古今集」と称される
 1702年(皇紀2362)元禄15年から死去の直前まで執筆したといわれる
 1775年(皇紀2435)安永4年に板行されて世に出る


 <猿蓑(さるみの)>
 松尾芭蕉の指導のもと、野沢凡兆と共編した松尾蕉風の俳諧撰集
 1691年(皇紀2351)元禄4年の完成

 <旅寝論(たびねろん)>
 1699年(皇紀2359)元禄12年3月に自序された俳諧論書

 <「贈其角先生書」「答許子問難弁」>
 松尾芭蕉の死去後も、師の教えを頑なに守り、其角や許六と論争した書


 <著書「伊勢紀行」>
 <句集「去来発句集」>


 <主な句>
 柿ぬしや 梢はちかき あらし山
 凉しくも野山にみつる念仏哉
 岩はなや ここにもひとり月の客
 秋風や 白木の弓に弦はらん
 湖の水 まさりけり五月雨
 をととひは あの山越つ花盛り
 尾頭の こころもとなき海鼠哉
 螢火や 吹とばされて鳰の闇
 鳶の羽も 刷ぬはつしぐれ
 応々と いへど敲くや雪の門


 <西三十三ケ国の俳諧奉行>
 向井去来を評されたあだな
 西日本の蕉門を結集させた実績と、温厚篤実で、同門の人々に尊敬され、まとめる技量も持っていたといわれる

【向井去来ゆかりの地】

 <落柿舎
 向井去来の嵯峨野の別邸
 松尾芭蕉も滞在し「嵯峨日記」を執筆した
 1686年(皇紀2346)貞享3年の建立


 <お墓>
 去来墓
 落柿舎の裏の、弘源寺の墓苑内に小さな去来墓がひっそりとある
 遺髪を埋めたといわれる

 高浜虚子の歌「凡そ天下に 去来ほどの小さき墓に詣でけり」


 <真如堂
 一門と一緒にお墓があった

 茶所脇に去来句碑がある
 「凉しくも野山にみつる念仏哉」
 当時、善光寺如来を一目見ようと集まった人々が境内を埋めた様子が歌われている


 <覚円院>
 真如堂塔頭
 「去来寺」と称されている


 <二尊院
 東南墓地に招魂碑が立てられている



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