兵部大輔大村益次郎公遺跡は、大村益次郎が襲撃された宿所の跡を示す石碑
石碑は、高瀬川沿いである木屋町通に立つ
幕末維新のとき
木屋町通には、土佐藩や長州藩などの諸藩の京都藩邸、尊攘派志士の寓居などが立ち並らび、
藩士や浪士の通行も多く、天誅とする襲撃事件も多かった
三条小橋には、佐久間象山・大村益次郎遭難の地の石碑も立つ
大村益次郎(おおむら ますじろう)は、長州藩出身、兵学者、廃刀論者
贈従三位、後に従二位
1824年(皇紀2484)文政7年5月3日
長州藩で生まれる
西洋学や、梅田幽斎に医学を学び、緒方洪庵の塾で兵学を学ぶ
江戸に出て幕府の講武所教授などに就く
長州藩の軍事指導者として軍制改革などで活躍
農民や町人の兵式訓練の必要を説き、第2次長州征伐・戊辰戦争において指揮を行った
1869年(皇紀2529)明治2年7月8日
初代の兵部省兵部大輔(後の陸軍次官)に任命され、近代兵制の樹立に尽力し、
事実上の日本陸軍の創始者といわれる
同年9月4日
廃刀論で士族の反感を買い、三条木屋町で、反対派士族に襲われ重傷を負う
同年11月5日
容態が悪化し、敗血症で死去する
享年46