有智子内親王墓(うちこないしんのうぼ)は、第52代 嵯峨天皇の第8皇女 有智子内親王の陵墓
嵯峨野の落柿舎の西隣にある
有智子内親王は、漢詩人でもあり、初代の賀茂斎王
嵯峨野の落柿舎のすぐ西隣の、有智子内親王の春日山荘の跡に陵墓がおかれる
かつては、陵墓の上に小祠が建てられ「姫明神(ひめみょうじん)」と称されていた
現在の地名「嵯峨小倉山緋明神町(ひのみょうじんちょう)」の由来となる
有智子内親王は、女流吟詠家の祖といわれる
823年(皇紀1483)弘仁14年2月18日
有智子内親王が17才の時、嵯峨天皇は賀茂に行幸して詩会を催した
この時、春日山荘の題に対して、有智子内親王が即行で七言律詩を作る
「寂寂(じゃくじゃく)たる幽荘(ゆうそう) 水樹の裏 仙輿(せんよ)は一とたび降る一池塘(ちとう)、
林に栖む孤鳥は春沢を識り、澗(たに)に隠れし寒花も日光を見る。
泉声は近く報ず初雷の響、山色は高く晴れ暮雨(ぼう)行く。
此より更に知れり恩顧(おんこ)の渥(あつ)きを。生涯何を以ってか穹蒼(そうきゅう)に答えん」
嵯峨天皇は、この詩を賛嘆されたといわれ、その場で三品の位を授けたといわれる