永福寺(えいふくじ)(EifukuJi)



所在地:京都市中京区新京極通蛸薬師下ル東側町   卍地図情報卍

山号:浄瑠璃山

院号:林秀院

本尊:蛸薬師如来

開基:林秀(二条室町の富豪)

通称:蛸薬師堂(たこやくしどう)

ご利益:心身の病気平癒、癌封じ

洛陽四十八願所地蔵尊 第三十三番(鯉地蔵)

 永福寺(えいふくじ)は、新京極の繁華街のなかに立つ寺院

 昔から境内に一歩踏み入れただけでも、蛸薬師如来のご加護があるといわれ信仰を得ている

 永福寺の参道となる東西の通りを「蛸薬師通」と称されるようになる

【永福寺の歴史・経緯】




【永福寺の伽藍】

 <本堂>

 <鯉地蔵尊>
 寶幢院
 洛陽四十八願所地蔵尊 第三十三番

 <不動尊

 <愛染明王
 愛敬院

 <妙心寺
 永福寺の境内の右手側から奥に建つ寺院

【永福寺の祭事】

 <大般若会> 毎月8日
 <地蔵会> 毎月24日

 <修正会> 1月1日
 <初薬師> 1月8日
 <春彼岸会> 3月21日
 <春大祭> 4月8日
 <盆施餓鬼> 8月16日
 <秋彼岸会> 9月23日
 <秋大祭> 10月8日
 <終薬師> 12月8日
 <大根炊き> 12月31日



【蛸薬師如来の故事

 <薬師如来の夢告>
 平安時代末期
 1181年(皇紀1841)養和元年
 二条室町の富豪 林秀が、延暦寺の根本中堂の薬師如来に帰依し、長年、延暦寺の月参りを行っていたが、
ある日、薬師如来に「年老いてきて長年の月参りもできなくなるため、どうか薬師如来様を一体お与え下さい」と
祈願したという
 その夜、夢枕に薬師如来が現れ、「昔、伝教大師 最澄が私の姿を石に彫り延暦寺に埋めたものを持ち帰るがよい」と
夢告があったという
 翌朝、林秀が、薬師如来の示された所を掘ると、瑞光赫々とした立派な石像が見つかり、大喜びしたという
 林秀は、その薬師如来の石像を持ち帰り、六間四面の堂を建立して祀り「永福寺」と称したといわれる

 <蛸薬師如来
 鎌倉時代中期
 建長年間(1249年〜1256年)
 日に日に病弱になっていく母親を永福寺に迎えて看病していた僧 善光(ぜんこう)は、
母親から「子供の頃から好物だった蛸を食べれば治るかもしれない。」と言われ、
僧侶の身で、生ものの蛸を買いに行くことを躊躇し悩んでしまう
 しかし、善光は、母親を想い、箱をかかえて市場に出かけ、蛸を買って帰える
 僧侶が生魚を買ったのを見かけた町の人たちが、門前で、善光に箱の中を見せるようにと責める
 善光は、一心に薬師如来に祈り「この蛸は、病気の母親に食べさすために買ったものです」と箱を開ける
 すると箱の中の蛸が、8本の足を変じて、八軸の経巻となって霊光を四方に照らした
 この光景に、人々は皆な合掌し、「南無薬師如来」と称えると、経巻は蛸に戻り、門前にあった御池に入り、
瑠璃光を放って、善光の母親を照らすと、病気はたちまち回復したといわれる
 それ以来、病気平癒を祈願すれば、身体の病だけでなく心の病もたちまち回復したといわれ、
蛸薬師如来」と称されるようになったといわれる

 <鯉地蔵>
 近くのある店の足が悪くて床についたままの主人が、心がけがよく働き者の店の若者に、
「今日中に届けないといけない大事な手紙が入っている文箱を、鴨川の東まで届けて欲しい」と頼まれる
 その日は、豪雨であった
 若者は、途中、いつも参拝している蛸薬師のお地蔵さんに「無事届けられますように」とお願いする
 鴨川へ着くと、水かさが増して流れも激しかったが、
若者は、意を決して、激流の中を歩いて渡ろうとした
 しかし、川の半ばで、大事な文箱を流してしまい、血相を変えて大慌てになるが、
 ところが、大きな鯉が、文箱をくわえてやってきたという
 日頃、信心深く心がけのよい若者を、お地蔵さんが鯉に姿を変えて助けたといわれるようになった

【永福寺へのアクセス】

 阪急電車 河原町 徒歩約5分
 市バス 四条河原町 徒歩約5分
 京阪電車 四条駅 徒歩約10分

LINEで送る

【京都検定 第14回2級】

【京都検定 第19回2級】

【京都検定 第19回1級】

[インデックス]


京都通メンバページ

フェイスブックでシェア LINEで送る

[目次]


[関連項目]


[協賛リンク]



[凡例]

赤字
 京都検定の出題事項
 (過去問は下段に掲載)

ピンク
 京都検定に出題された
項目へのリンク

青色紫色
 関連項目へのリンク