京都の故事(こじ)・伝説(でんせつ)(Legend of Kyoto)

 京都の故事は、時代や場所、登場人物などがあいまいな昔話風ではなく
歴史的事実といえるような具体的な場所や人物が登場する伝説が多く語り伝えられてきている

 <京都の七不思議>   <京都の神話

 <京都の鬼>   <京都の怪談

 <京都の故事>   <京の恩返し>   <京都の史話

 「今昔物語(こんじゃくものがたり)」・「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」・「古今著聞集」など

京都の七不思議

 京都には、多くの神社・寺院・各地に、昔から言い伝えられてきている七不思議が存在している

 むかしから、不思議な現象を7つ取り合わせる慣わしがある

 <永観堂の七不思議
 <上賀茂神社の七不思議
 <北野天満宮の七不思議
 <清水寺の七不思議
 <下鴨神社の七不思議
 <新京極の七不思議
 <知恩院の七不思議
 <出水の七不思議
 <西本願寺の七不思議
 <伏見稲荷大社の七不思議
 <堀川通の七不思議
 <八坂神社の七不思議

【京都の神話】

合槌稲荷

 合槌稲荷神社に残る
 名剣を打つように勅命を受けた名匠 三条宗近の相槌をつとめた狐(稲荷大明神)の故事

<明眼地蔵(あけめじぞう)(聞名寺)>

 平安時代
 時康親王(ときやすしんのう)(後の光孝天皇)が、眼の病を患い、医者も治療を諦めていたところ、
加茂の明神に眼病平癒の祈願を行うと、17日目の夜、夢の中に老翁が現れ、
「眼病を治したければ、地蔵菩薩を彫って守護仏としなさい」と告げられた
 仏師 慈覚大師に仏像を作らせ祀ったところ、時康親王の眼の病はすっかり良くなり、
第58代天皇にご即位することができたといわれる
 このことにより、眼病平癒のご利益があるといわれ「明眼地蔵」と称されるようになる

アマビエの図

 姿を写したものを見ると疫病が退散するといわれる肥後国海中の妖怪(アマビエ)
 京都大学附属図書館に原画が所蔵されている

<苗塚>

 奈良時代中期 天武天皇年間(672年〜686年)
 現在の伏見区石田森の里にある夜、一夜で数尺(数m)の稲苗が積み上げられ、その上に白羽の矢あり、
 白髪の老翁が現れて、「この地に天照大見と大山咋神を鎮め祀れば都南方の守護とならん」と告げられる

 稲苗が積み上げられたところが「苗塚」と称される

 この故事にもとづき、天穂日命神社の由来の祠が創建されたといわれる

<うなずきの弥陀(真如堂)>

 真如堂の本尊の阿弥陀如来立像(重要文化財)
 慈覚大師 円仁が、阿弥陀如来が完成し「修行者のための本尊となって下さい」と、眉の間に白毫を入れようとすると、
阿弥陀如来が頭を横に振られたので、
「それでは、山を下りて全ての人々の救済をして下さい。特に、女性をお守り下さい」と嘆願すると、うなずかれたといわれる
 洛陽六阿弥陀めぐりの一つ

<負別阿弥陀如来(おいわけあみだにょらい)(蓮光寺)>

 蓮光寺の本尊の阿弥陀如来像
 快慶が、東国の僧 覚明の依頼で作ったといわれ、快慶が、上出来の阿弥陀如来像と別れるのが辛く、
覚明を追いかけ、山科のあたりで追いつき再拝しようとしたところ、紫雲がたなびき、
阿弥陀如来像が光を放ち、自ら二体に分身したといわれる
 その一体を、快慶が持ち帰り蓮光寺の本尊としたといわれる
 もう一体は、仙台市泉区に現存し、「笈分如来(おいわけにょらい)」と称されて祀られている

<桓武天皇の夢の故事>

 桓武天皇は、神が、天から田村(神足村の旧名)の池に降り立ち、宮中を襲おうとした悪霊を退散させた夢を見られた
 桓武天皇は、田村に、この神を祀る社を創建させ、太刀と絹を賜わせ「神足神社」と称したといわれる

<空也の鰐口と太鼓>

 「空也上人絵詞伝」によると
 松尾明神が人に化現して現れ、空也上人に、お布施として鰐口と太鼓を与え、
 「末世の衆生利益のために、この太鼓を叩いて念仏を勧めなさい。念仏を唱えていれば影で守護をする」と神託して消えたという

<釘抜地蔵(石像寺)>

 前世の罪で手の病気に苦しむ商人の夢に地蔵菩薩が現れ、手に刺さっていた二本の怨みの釘を抜いて救ったことから
「釘抜地蔵(くぎぬきじぞう)」と称されて、苦しみを抜くという信仰が生まれた

こぬか薬師薬師院

 鎌倉時代
 1230年(皇紀1890)寛喜2年の冬
 異常気象による極寒の中で、疫病が大流行していたある夜、斉藤山城守の夢に本尊の薬師如来が現れ、
 「一切の病苦の衆生よ、わが前に来れば諸病ことごとく除いてやる。早く来ぬか来ぬか」と告げられた
 斉藤山城守は、感激して世間にこのお告げを広め、遠国からも参拝者が訪れ疫病が早々に治まったといわれる
 その後、薬師院を「不来采薬師」「こぬか薬師」と称されるようになった

<駒止地蔵菩薩像(こまどめじぞうぼさつぞう)(蓮光寺)>

 もと六条河原の刑場に祀られていたが、鴨川の氾濫で埋もれてしまっていたのを、
 1158年(皇紀1818)保元3年
 平清盛が乗っていた馬が止まり急に動かなくなったため、そこを掘ってみると地蔵菩薩が出てきたといわれる
 盗賊に襲われた篤信者を護り、身代わりになって首を切られたといわれ、「首切り地蔵」とも称される

<逆蓮華(さかれんげ)(安養寺)>

 安養寺の本尊
 台座の蓮華の8枚の花弁が下向きに開いている珍しいもの

 蓮台を作り、仏像を載せたところ3度も蓮台が壊れてしまい、作るたびに壊れてしま ったといわれ、
 ある日の夜、悩んでいた仏師の夢の中に年老いた僧が現れ、「逆蓮華の台座を作るとよい」と夢告があったといわれる

猿ヶ辻の猿京都御所

 京都御所の北東の角の凹んだところ「猿ヶ辻」に置かれた鬼門除けの猿

鍾馗さん

 江戸時代に、三条の薬屋が家を新築したときに、大屋根に鬼瓦を乗せたところ、向かいの家の奥さんが病に伏せてしまい、
鬼に強い鍾馗さんを家の玄関の小屋根に飾るとその病気が治ったといわれる

<証拠の阿弥陀如来(勝林院)>

 1186年(皇紀1846)文治2年
 大原談義、大原問答
 天台宗の顕真法師(後の61世天台座主)が、浄土宗の宗祖 円光大師 法然上人大原の里勝林院に招いて、
専修念仏について問答を行い宗論を戦わせた
 この時、法然上人の教えが正しいと、阿弥陀如来の手から光明が放たれ、
念仏の衆生済度(しゅじょうさいど)の証拠を示したといわれ「証拠の阿弥陀」と称されるようになった

将軍塚

 平安時代末期以降
 天下に異変があるときは、必ず将軍塚が鳴動して前兆を表すといわれる

 「源平盛衰記」によると
 源頼朝が挙兵する前年、1179年(皇紀1839)治承3年7月には、3度、将軍塚が鳴動し、その後、大地震が起こったといわれる

聖武天皇の即位伝説

 聖武天皇が、夢に現われた竜神から「打出」と「小槌」を授かり、祈願をすると天皇に即位できたといわれる
 宝積寺に、その打出と小槌が祀られており「宝寺(たからでら)」とも称される

蘇民将来と祇園祭のちまき

 八坂神社の祭事である祇園祭では、「蘇民将来之子孫也」と護符の付いた「ちまき」が配られ厄除けに祀られる

蛸薬師如来永福寺)>

 鎌倉時代中期 建長年間(1249年〜1256年)
 永福寺の僧 善光の病気の母親への孝行の故事

丹波湖開拓伝説

 亀岡盆地は、太古は湖であったといわれ、湖が開拓された伝承が各地に残っている

<飛梅伝説>

 平安時代初期
 大宰府に左遷された菅原道真を慕って、菅原道真の御殿の梅が一夜にして大宰府まで飛んでいったといわれる

弁慶石

 三条通麩屋町の歩道脇にある石
 武蔵坊弁慶が気に入っていた石で、最期を遂げた奥州高館へ移されるが、元の「三条京極に往かん」と唸って騒ぎ出したといわれる
 「男の子が触ると力持ちになれる」「火魔・病魔からのがれられる」といわれている

<疱瘡石(西院春日神社)>

 平安時代初期
 淳和天皇 皇女 崇子内親王が、疱瘡(ほうそう)にかかり、西院春日神社でご祈願をされると、
神前の石が崇子内親王の身代りとして疱瘡になり、崇子内親王の疱瘡が完治されたといわれ
病気平癒、無病息災の守護神として崇められている
 都に疫病が流行ると、この石の表面が必ずぬれるといわれる

<松尾大社の亀>

 奈良時代中期 714年(皇紀1374)和銅7年
 古記によると
 磐座(いわくら)があった松尾山の大杉谷に、
首に3つ、背中には7つの星があり、尾が緑毛・金色毛に覆われた長さ8寸の亀が現れたので
神主が、朝廷に参上したところ、メデタイこととして元号を「霊亀」に改元され、
亀は、再び大杉谷に放たれたといわれる

 729年(皇紀1389)天平元年
 松尾山の大杉谷に、背中に「天王貴平知百年」と記された亀が出たので、
秦忌寸都理が、朝廷に献上すると、奉幣使を立てて神のめぐみを感謝されたといわれる

見返り阿弥陀(永観堂

 永観堂の木造阿弥陀如来立像(重要文化財)
 1082年(皇紀1742)永保2年
 中興の祖の永観律師(ようかんりっし)が、念仏の行道(ぎょうどう)をしていたところに阿弥陀如来が須弥壇から下りてきて
永観律師と一緒に行道を始め、驚いた永観律師が足を止めると、
阿弥陀如来が振り向いて、「永観遅し」と永観に声をかけて導いたといわれる
 阿弥陀如来は、それ以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿で安置されているといわれる
 顔を左(向かって右)に向けた珍しい姿の像

<身代りお釈迦さま(戒光寺)>

 戒光寺の本尊 丈六釈迦如来像(重要文化財)>
 鎌倉時代仏師 運慶(うんけい)と湛慶親子の合作
 首の辺りに、血が流れたように見える跡がある
 第108代 後水尾天皇が東宮の時代、即位争いに巻き込まれ、ある夜、暗殺者に寝首を斬られてしまう
 が、血を流していたのは、身代りになられた丈六釈迦如来像だったといわれる
 その後、無事に即位された後水尾天皇は、事あるごとに丈六釈迦如来の身代りに守られ、
歴代天皇の中でも稀な長命を全うされたといわれる
 「身代りお釈迦様」と称され、「悪しき事の身代り」「首から上の病気、のどの病気を治してくださる」と崇められる

身代り聖観音(穴太寺

 平安時代中期
 962年(皇紀1622)応和2年
 丹波に住んでいた宇治宮成が、京都の仏師 感世に聖観音菩薩像の制作を依頼した
 聖観音菩薩像の完成後に、檀家が感世にお礼を渡したが、宇治宮成はそのお礼を奪おうと待ち伏せして感世に向かって矢を射った
 後日、宇治宮成は、自分の射った矢は聖観音菩薩像に突き刺さり、感世は生きていることを知り、
自分の行いを悔い仏門に入りその聖観音菩薩像を本尊として祀ったといわれる
 この故事により、穴太寺は、身代り観音の寺として信仰を得てきた

身代わり観世音菩薩成相寺)>

 冬のある日、成相山で修験の修行をしていた真応上人の飢えを、観世音菩薩が身代わりになって助けてくれたという故事
 「成相寺」の寺名の由来とされている

道真の登天石

 水火天満宮の境内に置かれている霊石

<迎鐘の伝説(六道珍皇寺)>

 迎鐘の音が、十万億土の冥土にまで響き渡り、お精霊さん(おしょうらいさん)が、この世に呼び寄せられるといわれる
   「古事談」によると
 六道珍皇寺を開基した慶俊僧都が作らせた梵鐘
 慶俊僧都が、中国 唐へ行く時に、弟子に「この鐘を鐘楼の地中に三年間埋めておくように」と厳命した
 しかし、弟子が、一年半ばで掘り出して鐘を撞いてしまい、その音が、中国 唐の慶俊僧都にも聞こえたといわれる
 慶俊僧都は、「三年間地中に埋めておけば、六時になると自然に鐘が鳴るようになったのに」と、残念がったといわれる
 そして、中国 唐にまで音が響く鐘なら、冥土まで届くだろうと信仰されるようになったといわれる

薬師如来の飛来伝説(因幡薬師堂

 「因幡堂縁起(重要文化財)(東京国立博物館所蔵)」によると
 平安時代後期
 従四位上 中納言 橘行平が、因幡国司の勅命を受けて、因幡国の一の宮へ赴任された時、
重い病気にかかり平癒を祈願したところ、夢のお告げを受け、海中より薬師如来を引き上げて、お堂を建てて祈願したところ
病気が治ったといわれる
 橘行平が、京都に帰った後、  因幡国のお堂に安置されていた薬師如来が、橘行平のあとを追い、京都の橘邸に飛来したきたので、
橘行平が開基となり、自宅を寺として、その薬師如来を祀ったのが由来といわれる
 現在も、因幡国の座光寺には、薬師如来の跡の後光と台座だけが残っている

<薬師如来の夢告(永福寺)>

 平安時代末期 1181年(皇紀1841)養和元年
 二条室町の富豪 林秀が、延暦寺の根本中堂の薬師如来に帰依し、長年、延暦寺の月参りを行っていたが、
ある日、薬師如来に「年老いてきて長年の月参りもできなくなるため、どうか薬師如来様を一体お与え下さい」と祈願したという
 その夜、夢枕に薬師如来が現れ、「かつて、最澄が私の姿を石に彫り延暦寺に埋めたものを持ち帰るがよい」と夢告があったという
 翌朝、林秀が、薬師如来の示された所を掘ると、瑞光赫々とした立派な石像が見つかり、大喜びしたという
 林秀は、その薬師如来の石像を持ち帰り、六間四面の堂を建立して祀り「永福寺」と称したといわれる

<矢取地蔵>

 平安時代初期 824年(皇紀1484)天長元年夏
 大干ばつの際、淳和天皇の勅命により神泉苑で行われた「雨乞い合戦」で、
東寺弘法大師 空海に負けて面目をつぶされた西寺の守敏大師(しゅびんたいし)が、
羅城門の近くを通る空海を待ち伏せ、後ろから矢を放つ
 そこに一人の黒衣の僧が現れ、守敏大師の矢を右肩に受け、空海は難を逃れた
 黒衣の僧となり、空海を助けた矢取地蔵尊が、矢取地蔵寺に祀られている

<世継地蔵(上徳寺)>

 江戸時代初期 1657年(皇紀2317)明暦3年
 上徳寺の信者であった八幡の清水氏が子供を亡くし、世継の子に恵まれるよう祈願しお堂にこもり、
7日目の夜、等身大の地蔵菩薩が現れて「我を石に刻み祈願しなさい」と告げられる
 清水氏は、その地蔵菩薩を石に刻んで祈願すると、世継ぎの子を授かったことに由来し、
その地蔵菩薩が「世継地蔵」と称されるようになったといわれる

 享保年間(1716年〜1735年)
 当時の住職が、「我は子がない者に子を授け、子孫相続し家運長久ならしめん」と夢告を受けたといわれる

 1852年(皇紀2512)嘉永5年
 孝明天皇の中山慶子親王は、世継地蔵を篤く信仰し、明治天皇を出産したといわれる

六地蔵めぐり

 「六地蔵縁起」(大善寺:1665年(皇紀2325)寛文5年)によると
 平安時代初期 852年(皇紀1512)仁寿2年
 小野篁が一度は亡くなるが、冥土において生身の地蔵菩薩に出会い、教えに従って蘇生し、
木幡山(こばたやま)の一本の桜の大木から六体の地蔵菩薩像を刻み、木幡の里(現在の大善寺)に安置したといわれる


【京都検定 第1回3級】

79.京都北区にある「衣笠山」は、天皇が夏に雪を見たいと言い出し、山全体に白絹をかけて覆い雪景色に見せたという故事から名付けられたという、その天皇は誰か?

87.お茶の宗匠に化けてお手前を披露したといわれる、相国寺境内に住んでいた狐を何と称する?

 京都検定3級の道  前の問題に戻る  ・ 次の問題に進む

【京都検定 第2回3級】

【京都検定 第3回3級】

【京都検定 第4回3級】

【京都検定 第6回3級】

【京都検定 第9回3級】

【京都検定 第12回3級】

【京都検定 第13回3級】

【京都検定 第14回3級】

【京都検定 第15回3級】

【京都検定 第16回3級】

【京都検定 第17回3級】

【京都検定 第1回2級】

【京都検定 第2回2級】

【京都検定 第3回2級】

【京都検定 第4回2級】

【京都検定 第5回2級】

【京都検定 第6回2級】

【京都検定 第7回2級】

【京都検定 第8回2級】

【京都検定 第10回2級】

【京都検定 第11回2級】

【京都検定 第12回2級】

【京都検定 第13回2級】

【京都検定 第14回2級】

【京都検定 第15回2級】

【京都検定 第16回2級】

【京都検定 第17回2級】

【京都検定 第2回1級】

【京都検定 第4回1級】

【京都検定 第5回1級】

【京都検定 第11回1級】

【京都検定 第13回1級】

【京都検定 第14回1級】

【京都検定 第15回1級】

【京都検定 第16回1級】

【京都検定 第17回1級】


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