延暦寺(えんりゃくじ)は、比叡山全域を境内とする寺院で、日本天台宗の祖 最澄により開かれる
比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)・西塔(さいとう)など、
三塔十六谷の堂塔を総称して「延暦寺」と称される
境内は、国の史跡に指定されている
比叡山は、平安京からみた北東の鬼門にあたる
奈良の諸大寺の「南都」に対して「北嶺(ほくれい)」、園城寺(おんじょうじ)の「寺門(じもん)」に対して
「山門(さんもん)」と称される
2006年(皇紀2666)平成18年には、開宗1200年を迎えた
住職(貫主)は、「天台座主」と称され、天台宗の寺院を統括する
現在も天台の思想に基づいた「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が続けられている
「比叡山鳥類繁殖地」として天然記念物に指定されている
<八宗兼学>
平安時代末期から鎌倉時代
天台教学は、「八宗兼学」といわれ、新しい宗旨を唱える学僧を輩出した
日蓮宗の開祖 日蓮聖人
浄土宗の開祖 法然上人
浄土真宗の開祖 親鸞聖人
臨済宗の開祖 栄西禅師
曹洞宗の開祖 道元禅師
智真、時宗の開祖 一遍上人
天台宗空也派の創始 空也上人
天台宗真盛派の創始 慈摂大師 真盛上人
鎌倉新仏教といわれる禅宗の開祖など
<日本仏教の母山>
日本仏教における著名な高僧の多くが、若い日に比叡山で修行していることから「日本仏教の母山」とも称されている
最澄と対立していた空海のもとからは、高名な僧が殆ど輩出していないことも比べられる
標高848mの比叡山全域を境内とする
根本中堂1棟が国宝に、他に19棟が重要文化財に指定されている
延暦寺境内は、国の史跡に指定されている
<三塔>
比叡山の山内は、「東塔(とうどう)」「西塔(さいとう)」「横川(よかわ)」と称される3つの区域に分かれている
滋賀県側の山麓の坂本地区には、本坊の滋賀院、「里坊」と称される子院群がある
これらを総称して「三塔」と称し、さらに細分して「三塔十六谷二別所三千坊」と称される
東塔:北谷・東谷・南谷・西谷・無動寺谷
西塔:主稜線の西に広がる、東谷・南谷・南尾谷・北尾谷・北谷
横川:北東、香芳谷・解脱谷・戒心谷・都率谷・般若谷・飯室谷
別所:里坊群、黒谷・安楽谷
東塔は、延暦寺の主要伽藍の根本中堂と大講堂を中心とする
東面する根本中堂の東の台地に文殊楼を構え、参道の石段下に山王社を東向きに立つ
東塔西谷では、東面する阿弥陀堂前に鐘楼を建て、さらに西側の尾根上に開祖最澄を祀る浄土院がある
<根本中堂(こんぽんちゅうどう)(国宝)>
東塔に建つ延暦寺の総本堂
最澄が建立した一乗止観院が発展したもの
内部は、外陣を礼堂として板敷
内陣は、土間になっており、外陣より床が3mも低くなっている
内部には、3基の厨子が安置されている
密教建築の基本的形式を殘すもの
中央の厨子には、最澄の自作といわれる秘仏の本尊 薬師如来立像が安置されている
本尊の厨子前の釣灯籠は、創建以来、絶やしたことがない「不滅の法灯」が灯っている
護摩壇があり、毎日、薬師護摩が焚かれている
桁行十一間、梁間六間、幅37.6m、奥行23.9m
一重、入母屋造、屋根高24.2m、総欅造、銅板葺瓦棒入、瓦棒銅板葺
附指定:須弥壇及び宮殿3具
788年(皇紀1448)延暦7年
最澄により、鎮護国家の道場として一乗止観院が創建される
小規模な3棟のお堂であった
1571年(皇紀2231)元亀2年
織田信長による焼き討ちにより焼失
1640年(皇紀2300)寛永17年
徳川家光によって現在の建物が再建される
約30年から40年ごとに修復が行われ、栩葺の葺替や柱根継などが行われている
1899年(皇紀2559)明治32年4月5日 重要文化財に指定される
1953年(皇紀2613)昭和28年3月31日 国宝に指定される
<根本中堂廻廊(こんぽんちゅうどうかいろう)(重要文化財)>
根本中堂の正面をコの字に取り囲む廻廊
回廊内には前庭が造られている
竹台の北は「いん篠(いんじょう)」と称され、国内3700社の神が祀られている
南は「叢篠(そうじょう)」と称され、山王七社が祀られている
二つの鎮壇塚には18神が祀られている
最澄が、唐の天台山香炉峰の神より贈られたという「ていの木」が植えられている
「安鎮家国法」という密教秘法が修されるときに、神に供える仏具、秘具が埋められている
1640年(皇紀2300)寛永17年
根本中堂が、徳川家光によって現在の建物が再建された同じ時期に建立された
桁行折曲り四十一間、梁間二間、一重、両下造(まやづくり)、とち葺、
正面前後軒唐破風付、両側面車寄各唐破風造
1899年(皇紀2559)明治32年4月5日 重要文化財に指定される
<文殊楼(もんじゅろう)(重要文化財)>
常坐三昧院・一行三昧院とも称される
根本中堂の真東に、高い石段の上に建っている根本中堂の正門とされる
二階建ての門で、上層内部は仏堂として、智慧の文殊菩薩が安置されている
最澄の四種三昧堂の一つ
文殊楼の石段最上段の高さと根本中堂屋根の高さが等しく、約20mの高低差がある
重層楼閣、三間一戸二階二重門、入母屋造、重層和唐混合様式、銅板葺、一層の中央1間が吹き抜けになっている
861年(皇紀1521)貞観3年
円仁により、常座三昧の修行を行う道場として、
中国五台山の文殊菩薩堂に倣って、五台山の霊石5つを周囲に埋めて建立が始まる
868年(皇紀1528)貞観10年
文殊楼が完成し、五台山の香木を胎内に納めた文殊菩薩像が安置される
966年(皇紀1626)康保3年に焼失
969年(皇紀1629)安和2年
良源により、中国五台山の文殊菩薩が勧請されて再興される
1642年(皇紀2302)寛永19年
徳川家光により再建される
1668年(皇紀2328)寛文8年の火災で焼失
現在の建物は、同年に再建されたもの
2016年(皇紀2676)平成28年7月25日 重要文化財に指定される
<文殊楼の世界平和の鐘>
世界106ヶ国から寄せられたコインやメダルを銅合金により鋳造されたもの
国連本部の世界平和の鐘を継承し、戦争の悲惨さ、核兵器廃絶、平和の尊さを訴える
2007年(皇紀2667)平成19年の寄贈
<大講堂(だいこうどう)(重要文化財)>
建物は、東山麓 坂本旧東照宮本地堂が移築されている
僧侶が学問研鑽のため論議する道場で、本尊に胎蔵界の大日如来が安置されている
右脇侍に十一面観音菩薩、左脇侍に弥勒菩薩が安置されている
本尊の両脇には、中国天台宗開祖 智顗、最澄、桓武天皇、聖徳太子が祀られている
若い頃に延暦寺で修行した高僧の等身大木像が、各宗派から寄進されて安置されている
向かって左から日蓮宗・日蓮、曹洞宗・道元、臨済宗・栄西禅師、天台宗・円珍、浄土宗・法然上人、
浄土真宗・親鸞聖人、融通念仏宗・良忍、天台真盛宗・真盛、時宗・一遍上人
良源が始めた「法華大会広学堅義」、最澄による「天台会法華十講」などの論義法要が行われている
「涅槃会」「伝教大師御影供」などの法会も行われている
桁行七間、梁間六間、一重、入母屋造、正面に向拝、桟唐戸、蔀戸、銅板葺
824年(皇紀1484)天長元年
初代天台座主 義真和尚により創建される
1956年(皇紀2616)昭和31年に火災で焼失
1964年(皇紀2624)昭和39年
東山麓 坂本の東照宮本地堂(讃仏堂)(1634年(皇紀2294)寛永11年の建立)が移築される
1987年(皇紀2647)昭和62年6月3日 重要文化財に指定される
<法華総持院(東塔院)東塔>
最澄が、日本全国の6ヶ所の聖地に建立した六所宝塔を総括する近江宝塔院にあたる多宝塔があった
根本中堂と共に重要な信仰道場とされる
上層部は、平面円形ではなく、方形になっている
下層に胎蔵界大日如来、上層に仏舎利と法華経1,000部が安置されている
862年(皇紀1522)貞観4年
円仁により、唐の長安青龍寺の鎖国道場を模して建立される
1571年(皇紀2231)元亀2年9月12日
織田信長の焼き討ちにより焼失
1980年(皇紀2640)昭和55年
約410年ぶりに再建される
<法華総持院・阿弥陀堂>
念仏回向の道場
法界寺阿弥陀堂を模して建てられた朱塗りの方形造の建物
本尊に阿弥陀如来が祀られている
方5間、1間の庇付、軒廻りに蟇股、屋根の上に青銅製の露盤宝珠(約2.3m×3m)がある
全国の檀信徒位牌が祀られている
堂には52段の石段があり、修行により悟り成仏に向かう道といわれる
1937年(皇紀2597)昭和12年
比叡山開創1150年大法要を記念して創建される
設計は安井楢次郎(京都府技師)
<阿弥陀堂鐘楼(あみだどうしょうろう)(重要文化財)>
細部に、江戸時代初期の様式が現れている
桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、銅板葺
1634年(皇紀2294)寛永11年
坂本の讃仏堂に建立される
1983年(皇紀2643)昭和58年
坂本の讃仏堂が大講堂として移築されたとき、鐘楼も現在の地に移築された
2016年(皇紀2676)平成28年7月25日 重要文化財に指定される
<法華総持院・灌頂堂(かんじょうどう)>
灌頂は法を伝える儀式で、僧の頭に香水が灌がれる(そそがれる)
1984年(皇紀2644)昭和59年の建立
<法華総持院・寂光堂・回廊・楼門>
1986年(皇紀2646)昭和61年の建立
<戒壇院(かいだんいん)(重要文化財)>
大乗戒壇院堂(だいじょうかいだんいんどう)、一乗戒壇院、法華戒壇院とも称される
僧侶が大乗戒(規律)を受ける延暦寺の中で最も重要なお堂とされる
天台座主を伝戒師として、年に約70人が戒を受けているといわれる
内部は、四半敷、石造戒壇がある
釈迦三尊(釈迦如来<戒和上>、文殊菩薩<羯魔師>、弥勒菩薩<教授師>)が安置されている
桁行三間、梁間三間、一重、裳階付、宝形造、正面軒唐破風付、とち葺、柿葺、
828年(皇紀1488)天長5年
初代天台座主 義真和尚により創建される
1571年(皇紀2231)元亀2年9月12日
織田信長の焼き討ちにより焼失
1678年(皇紀2338)延宝6年
現在の建物が再建される
1901年(皇紀2561)明治34年8月2日 重要文化財に指定される
<大黒堂(出世大黒天堂)>
かっての政所・食堂
本尊には、正面が大黒天・左に毘沙門天・右に弁財天の3つの顔を持つ三面大黒天が祀られている
大黒天は、最澄が初めて比叡山に登り山中で修行をしていたところに現れて、寺の財政を守護することを約束したといわれる
最澄は、比叡山の平安と、庶民の財福を祈願したといわれる
豊臣秀吉も開運と福徳を祈願したといわれ、「出世大黒天」ともいわれている
1571年(皇紀2231)元亀2年9月12日
織田信長の焼き討ちにより焼失
寛永年間(1624年〜1644年)
再建され、食堂・根本中堂御供所として使われた
<萬拝堂>
日本全国の神社仏閣の諸仏諸菩薩諸天善神が勧請され、世界の神々も奉安されている
千日回峯行者が明け方に参拝している
宝形造
<国宝殿>
仏像や絵画・工芸品・文書などが収蔵展示されている
<大書院>
皇室・高僧・勅使の宿坊・休憩所に使われている
1928年(皇紀2588)昭和3年
昭和天皇の即位・御大典にあわせ、迎賓館として、東京 山王台に建てた村井吉兵衛の邸宅の一部を移築する
<一隅を照らす会館>
参拝者のための無料休憩所
比叡山全景の立体模型などが置かれている
<祖師御行績絵看板>
2006年(皇紀2666)平成18年
天台宗開宗1200年慶讃大法会にあたり、伝教大師 最澄や比叡山から輩出された祖師たちの御行績絵看板が
修復され境内に掲げられた
<元亀兵乱殉教者鎮魂塚>
東塔入口にある
1571年(皇紀2231)元亀2年9月12日の織田信長の焼き討ちの犠牲者の塚
1000人から3000人が供養されている
<開運の鐘>
比叡山に一大事があれば、鐘が撞かれ、各山各谷より宗徒・公人・僧兵が集まったという
1571年(皇紀2231)元亀2年9月12日
織田信長の焼き討ちのときには、美しい「茄子婆さん」という女性が紫色の顔色をしてこの鐘をしきりに撞いていたといわれる
1956年(皇紀2616)昭和31年に焼失
その後、再建されたもの
梵鐘は、827年(皇紀1487)天長4年に勅命により鋳造されたもので、国宝殿に保管されている
<前唐院>
大講堂の裏(北側)にある
本尊は、第3世天台座主 慈覚大師 円仁の真影が安置されている
円仁が中国 唐から持ち帰った経典・法具・仏画なども安置されているといわれる
円仁の禅房だったともいわれる
888年(皇紀1548)仁和4年
円珍が、円仁の学積顕彰のため創建したともいわれる
980年(皇紀1640)天元3年
良源により、円仁が唐から持ち帰り根本経蔵に蔵していた顕教文献、法華総持院に蔵していた密教文献を
前唐院へ移したといわれる
中国 唐から来日した僧や、帰国した僧が住んだ
後に、第5世天台座主 智証大師 円珍が、西谷に唐院(後唐院)を建立したため、こちらは「前唐院」と称されるようになった
円仁を偲ぶ華芳会が行われる
<瑞雲院(法華三昧道場)>
大講堂の裏(北側)にある
法華経を論じる大講堂の政所
かつては、「教光坊」と称されていた
1684年(皇紀2344)貞享元年
正教坊詮舜により再興されて、「瑞雲院」と改称された
1973年(皇紀2633)昭和48年
瑞雲院住職 岡野正道夫妻により再建される
<已講坂(いこうざか)>
鐘楼からの下り坂
已講が、4年に一度行われる法華大会で講師を務めるために、この坂を登って大講堂に向かうため名付けられた
<登天天満宮>
已講坂の途中にある
祭神:菅原道真
ある時、第13世天台座主 尊意の部屋に菅原道真の霊が現れ、恨みを晴らして欲しいと頼まれる
尊意が断ると、尊意が差し出した柘榴(ざくろ)の実を食べて、口から火を吹いたという
尊意は神通力で火を避け、霊力に驚いた霊は庭の石を蹴り上げて天に昇っていったという
<大塔宮護良親王御遺跡の碑>
後醍醐天皇の皇子 大塔宮護良親王の遺跡
6歳のときに、尊雲法親王として、梶井門跡三千院に入る
1327年(皇紀1987)嘉暦2年と1330年(皇紀1990)元徳2年に、第116世・118世天台座主となる
1331年(皇紀1991)元弘元年 元弘の変
後醍醐天皇の幕府に対する変では、還俗し、比叡山の僧兵を統括して参戦した
建武の新政では、征夷大将軍、兵部卿に任じられる
1334年(皇紀1994)建武元年
後醍醐天皇と反目し、皇位簒奪の冤罪により失脚・幽閉され、その後、足利直義により殺害される
<傳教碑>
開祖 最澄の大師号の「傳教」の2字が刻まれている
文字は、天台宗大僧正で書道家の豊道慶中師の筆
裏面には、最澄が初めて根本中堂薬師如来のご宝に灯明をともされたときの御歌が、
春海翁の筆で刻まれている
<漢俳碑>
比叡山開創1200年にあたり、中国仏教協会会長 趙樸初から漢俳5首が贈られた
第1首は、比叡山が日本文化の育ての親であり、その徳風を蒙った人は計り知れない
第2首は、比叡山開祖の最澄の流れをくんで開かれた日本大乗仏教各派は、1200年前の恩徳を忘れない
第3首は、過去1200年、比叡山と中国 天台山は、東西相照らして大乗仏教の花を咲かせた
第4首は、日中両国仏教徒は、1200年間積み重ねた友情を未来永劫発展させよう
第5首は、同朋互いに心を合わせ世界の和平のために力を尽くし、大師の御加護をいつまでも
1987年(皇紀2647)昭和62年8月2日
比叡山・天台山・五合山の日中三山合同法要が行われ除幕した記念碑
<伝教大師童形像>
<山家学生式>
天台法華宗年分学生式一首
「国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。
道心ある人を名づけて国宝と為す。
故に古人言わく、径寸十枚、是れ国宝にあらず、一隅を照す、此れ則ち国宝なりと。
古哲また云わく、
能く言いて行うこと能わざるは国の師なり、能く行いて言うこと能わざるは国の用(ゆう)なり、
能く行い能く言うは国の宝なり。
三品(さんぼん)の内、唯言うこと能わず、行うこと能わざるを国の賊と為す。
乃ち道心あるの仏子、西には菩薩と称し、東には君子と号す。
悪事を己に向え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。」
<宮沢賢治の歌碑>
比叡十二首の冒頭に詠まれている歌
「ねがはくは 妙法如来 正遍知 大師のみ旨 成らしめたまへ」
1957年(皇紀2617)昭和32年の建立
宮沢賢治は、熱心な法華経信者で、詩「雨ニモ負ケズ」は、法華経・常不軽菩薩の真理を表すといわれる
9月21日には、賢治忌法要会が行われている
<蓮如堂>
本願寺8世 蓮如上人が、17歳から5年間、念仏修行を行ったところ
比叡山修行時の蓮如像と、本願寺8世時の二つの像が祀られている
蓮如上人は、念仏修行の日々を、竹の柱にむしろ壁の住まいで、冬は蚊帳を身にまとい寒さをしのいだといわれる
ある時、東江州の弥七という信者が訪れ、麦粉(はったいこ)と緑茶を差し入れると、
蓮如上人は「こんな御馳走を食べたことがない」と喜んだといわれる
以後、蓮如上人は「麦粉上人」と称され、弥七は「金ヶ森の道西」と称して、蓮如上人の布教を助けたといわれる
<法然上人堂>
法然上人が、出家得度を行ったところ
「法然上人得度御旧跡」の碑が建つ
<栄西禅師修行の地>
臨済宗千光派の祖 栄西禅師の修行の地
14歳で比叡山で出家し、天台教学、基好に密教を学んだ
<慈眼大師天海大僧正住坊跡>
東塔南谷にある
慈眼大師 天海大僧正は、徳川家の三代にわたり、宗教・政治の意見番として活躍した
1571年(皇紀2231)元亀2年9月12日
織田信長の焼き討ち後の復興に尽力し、三代将軍 徳川家光を説いて再建が行われた
東叡山寛永寺を開山し、比叡山教学を関東に定着させ、日光山を造営した
この地の下の谷にあった本坊 南光坊に、73歳から4年間住んだといわれる
99歳で、東麓の慈眼堂に移り、108歳まで長生きされた
<山王院(千手堂)(後唐院)(法華鎮護山王院)>
千手観音菩薩が安置されている
延暦年間(782年〜806年)
最澄が、鎮守山王権現を勧請して創建したといわれる
その後、円珍が天台座主のときの住坊となる
円珍が、中国 唐から持ち帰った経典章疏などを所蔵した山王蔵がある
円珍の死後、遺骨を納めた二体の真像のうち一体を安置された(もう一体は、三井寺 唐院に納められた)
1706年(皇紀2366)宝永3年
護心院義元を願主として、宝篋印塔が建てられた
<山王社(さんのうしゃ)(重要文化財)>
東塔の参道の石段下に東向きに立つ
最澄の九院構造のひとつ定心院の鎮守社といわれる
延暦寺山内に現存する鎮守社として最大の規模
三間社流造、銅板葺、庇を前室として囲み、一間向拝を付ける
1649年(皇紀2309)慶安2年の建立
2016年(皇紀2676)平成28年7月25日 重要文化財に指定される
<弁慶水>
山王院の近くの湧水で、現在も東塔の水源になっている
かつて西塔に住んでいた武蔵坊弁慶が、千日間、この水をくんで千手堂(山王院)に参籠したといわれる
寛平法皇が、この水を飲んで、「千手水」と号したといわれる
武将 平清盛が、熱病にかかり、この水で浴したといわれる
西塔は、東塔の北西、主稜線の西に広がり、東塔から徒歩で20分程のところにあるエリア
常行堂と法華堂と転法輪堂を石段の上下に立て核とされる
転法輪堂の南斜面上に鐘楼を立て、北の飛地に焼討ちを免れた瑠璃堂が残る
静寂な林の中に、主要な修業施設のお堂が点在している
横川(よかわ)は、北東エリアで、西塔からさらに奥へ約4kmほどのところ
慈覚大師 円仁によって開かれ、恵心僧都 源信・親鸞聖人・日蓮・道元など名僧たちが修行を行ったところといわれる
横川中堂の東側に四季講堂を中心として、北側の山の裏手に良源(元三大師)の廟所がある
坂本は、里坊群により栄えたエリア
日吉大社や里坊などからなり、里坊群は大津市坂本伝統的建造物群保存地区として保護が図られ、
慈眼堂は地区の南西寄りにある
<黒谷 青龍寺>
西塔地区から約1.5km離れた黒谷にある
法然上人が修行した場所といわれる
法然上人二十五霊場 特別霊場 御詠歌
「たつ杣や 南無阿弥陀仏の 声引くは 西に誘う 秋の夜の月」
<慈眼堂(じげんどう)(重要文化財)>
坂本エリアの南西寄りにあり、坂本の中核をなしている
慈眼大師 天海大僧正が祀られている
重厚な趣の禅宗様仏殿
桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、桟瓦葺
附指定:厨子1基
1646年(皇紀2306)正保3年の建立
2016年(皇紀2676)平成28年7月25日 重要文化財に指定される
<浄土院(じょうどいん)伝教大師御廟(でんぎょうたいしごびょう)(重要文化財)>
法華清浄浄土院、極楽浄土院とも称される
東塔地区から徒歩約15分のところにある
浄土院境内は南面し、参道奥に拝殿・唐門・伝教大師御廟が一直線に立っている
拝殿の背後に宗祖 最澄の廟があり、比叡山内で最も神聖な場所とされている
廟前に常香盤が置かれ、常に香りを放っている
6月4日、一年に一度だけ、最澄の命日法要「長講会」のときに廟の扉が開かれる
廟の脇には、沙羅双樹、菩提樹が植えられている
12年間の籠山修行の侍真僧(じしんそう)により、毎日、最澄が今も生きているかのように食事を奉仕されている
侍真僧は、最澄の定めた「山家学生式」に示された山修山学、霊空光謙が定めた「開山堂侍真条例」に基づき、
12年間、午前3時半の出定(起床)から、21時の入定(就床)まで、定められた勤行・修法を欠かさず行う
桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、瓦棒銅板葺
822年(皇紀1482)弘仁13年6月4日
最澄が、56歳で死去される
854年(皇紀1514)仁寿4年7月
慈覚大師 円仁が、最澄の遺骸を移して安置される
1662年(皇紀2322)寛文2年の建立の棟札写しなどがある
2016年(皇紀2676)平成28年7月25日 重要文化財に指定される
<浄土院拝殿(じょうどいんはいでん)(重要文化財)>
桁行五間、梁間三間、入母屋造、銅板葺
1662年(皇紀2322)寛文2年の建立
2016年(皇紀2676)平成28年7月25日 重要文化財に指定される
<浄土院唐門(じょうどいんからもん)(重要文化財)>
一間一戸向唐門、銅板葺
1666年(皇紀2326)寛文6年の建立
2016年(皇紀2676)平成28年7月25日 重要文化財に指定される
<無動寺明王堂>
根本中堂から南へ1.5kmほど離れたところにある
千日回峰行の拠点となっている
不動明王と弁財天が安置されている
865年(皇紀1525)貞観7年
回峯行の創始者とされる相応和尚(慈覚大師 円仁の弟子)により創建される
<西尊院堂>
比叡山頂に向かう道と奥比叡ドライブウエイの分岐点にある
「大弁財天」の赤い鳥居が立つ神仏習合のお堂
国宝 美術工芸品に10件(工芸品4件・古文書5件・書跡典籍1件)、その他35件が重要文化財に指定されている
工芸品
<金銅経箱(こんどうきょうばこ)1合(国宝)>
平安時代後期の金属工芸
甲盛、胴張りがある角丸長方形の経箱
蓋表中央に「妙法蓮華経」の五字を籠字(双鉤体)で記されている
縦27.1cm X 横12.1cm X 高8.3cm
第3世天台座主 円仁が、法華経を書写して如法堂内の小塔に納めたのを
1031年(皇紀1691)長元4年
比叡山首楞厳院の僧 覚超らが改めて銅筒を造り、これに納めて堂裏に埋納しようとしたときに、
上東門院も法華経を書写し結縁のために経箱に納め、堂筒内に籠められた経箱
そのときの願文も共に伝えられる
1924年(皇紀2584)大正13年10月
比叡山横川如法堂跡に、如法堂を再建するための基礎工事が行われたときに発掘された
京都国立博物館に寄託されている
1926年(皇紀2586)大正15年4月19日 重要文化財に指定される
1952年(皇紀2612)昭和27年3月29日 国宝に指定される
<七条刺納袈裟(しちじょうしのうけさ)1領(国宝)>
中国 唐時代の袈裟と僧衣
天台宗第六祖 荊溪(けいけい)大師所用と記されている
伝教大師 最澄が唐より請来したものといわれる
1964年(皇紀2624)昭和39年5月26日 重要文化財に指定される
1966年(皇紀2626)昭和41年6月11日 国宝に指定される
<刺納衣(しのうえ)1領(国宝)>
中国 隋時代の染織遺品
刺納(しのう)の刺は刺繍、納は補綴のこと
天台宗第六祖 荊溪(けいけい)大師所用と記されている
伝教大師 最澄が唐より請来したものといわれる
1964年(皇紀2624)昭和39年5月26日 重要文化財に指定される
1966年(皇紀2626)昭和41年6月11日 国宝に指定される
<宝相華蒔絵経箱(ほうそうげまきえきょうばこ)1合(国宝)>
平安時代後期の代表的な蒔絵経箱
唐草文様
縦33.0cm X 横20.3cm X 高17.0cm
1900年(皇紀2560)明治33年4月7日 重要文化財に指定される
1957年(皇紀2617)昭和32年2月19日 国宝に指定される
古文書
<羯磨金剛目録(かつまこんごうもくろく)1巻(国宝)>
811年(皇紀1471)弘仁2年7月17日
伝教大師 最澄の自筆の請来品目録
1951年(皇紀2611)昭和26年6月9日 国宝に指定される
<嵯峨天皇宸翰光定戒牒(さがてんのうしんかんこうじょうかいちょう)1巻(国宝)>
823年(皇紀1483)弘仁14年4月14日
嵯峨天皇の筆
1954年(皇紀2614)昭和29年3月20日 国宝に指定される
<伝教大師将来目録(でんきょうだいししょうらいもくろく)1巻(国宝)>
貞元二十一年五月十三日
明州剌史鄭審則跋
805年(皇紀1465)延暦24年
最澄が、唐の越州から持ち帰った経典類の自筆の目録
1951年(皇紀2611)昭和26年6月9日 国宝に指定される
<伝教大師入唐牒(でんきょうだいしにっとうちょう)1巻(国宝)>
中国 唐時代 804年から805年のもの
最澄の唐での通行許可書
・明州牒(貞元廿年九月十二日)
・台州牒(貞元廿一年二月日)
1954年(皇紀2614)昭和29年3月20日 国宝に指定される
<天台法華宗年分縁起(てんだいほっけしゅうねんぶんえんぎ)1巻(国宝)>
最澄の筆
1952年(皇紀2612)昭和27年3月29日 国宝に指定される
書跡・典籍
<六祖恵能伝(ろくそえのうでん)1巻(国宝)>
中国 唐時代 803年の書跡
貞元十九年二月十三日の奥書がある
最澄が持ち帰った、唐時代の写本
1953年(皇紀2613)昭和28年3月3日 国宝に指定される
仏像・彫刻
<木造 釈迦如来立像(しゃかにょらいりゅうぞう)1躯(重要文化財)>
転法輪堂(釈迦堂)の本尊の秘仏の釈迦如来立像
最澄の自作といわれる
1900年(皇紀2560)明治33年4月7日 重要文化財に指定される
<木造 聖観音立像(しょうかんのんりゅうぞう)1躯(重要文化財)>
横川中堂に安置されている
平安時代の作
1941年(皇紀2601)昭和16年11月6日 重要文化財に指定される
<木造 護法童子立像(ごほうどうじ)1軀(重要文化財)>
(附 像内納入品 一括)
肉身赤肉色の童子形像で比叡山東塔南谷の西尊院に残されている
かつて、南谷あった護法堂に祀られていた天台僧 皇慶(こうげい)に仕えたとされる乙護法(おとごほう)という護法童子の像といわれる
像高 75.4cm、檜材(ヒノキ材)の寄木造
表面には鮮やかな彩色文様が残っている
鎌倉時代後期の作
近年の修理で解体されたとき、頭部内より銅製の金色不動明王像と水晶製五輪塔、
体部内より不動明王印仏などの納入品が発見された
2025年(皇紀2685)令和7年 重要文化財に指定される
<薬師如来立像>
根本中堂の中央の厨子に安置されている秘仏
最澄の自作といわれる
1988年(皇紀2648)昭和63年
開創1200年記念に開扉された
<不滅の法灯>
根本中堂の本尊の厨子前の釣灯篭
最澄の時代から絶やしたことがないという「不滅の法灯」が灯っている
織田信長の焼き討ちで一時途絶えたが、山形県 立石寺に分灯されていたものを移されて伝わっている
<製鉄炉>
2006年(皇紀2666)平成18年2月
延暦寺横川中堂の東の県道の建設に伴う調査で、
鉄鉱石を溶かす製鉄炉の跡(縦約1.2m・横約0.5m)と、
燃料の木炭をつくる木炭釜の跡(高さ約3m・幅約1.7m・奥行き約9.1m)が1基ずつ見つかる
製鉄炉は、粘土のブロックを積み上げた「バスタブ型」で、鉄を造るごとに取り壊して谷に捨てたとみられる
第3世天台座主円仁が、横川中堂や総寺院を開いて基礎を確立した時期のものとみられる
<山法師>
延暦寺の僧兵(そうへい)のこと
白河法皇は、自分の意のままにならないものとして(天下の三不如意)、
「賀茂川の水(鴨川の流れ)・双六の賽(サイコロの目)・山法師(比叡山の僧兵)」をあげて、
僧兵の横暴を嘆いたといわれる
<雲母坂>
修学院離宮横を通って、比叡山の弁慶水・山王院を経て根本中堂に通じる最短コース
<天台座主>
日本の天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)
天台宗の諸末寺を総監する役職
宗祖伝教大師最澄からの法脈を相承し、天台宗徒および檀信徒の敬仰する天台宗の信仰の象徴的存在