地図情報
<本堂>
元の準提堂(じゅんていどう)
1914年(皇紀2574)大正3年
現在の熊野神社前の交差点南東角にあった準提堂を移転したもの
現在の本尊 準提観音菩薩像と、積善院の本尊だった不動明王像(重要文化財)が合祀されている
<元積善院本堂>
本堂の西側に立つ
役の行者像と、阿弥陀如来像などが祀られている
<崇徳院地蔵堂>
境内の西北隅に立つ
崇徳院地蔵が祀られている
<お俊伝兵衛恋情塚(おしゅんでんべえれんじょうづか)>
崇徳院地蔵堂の斜め前にある
1738年(皇紀2398)元文3年
釜座三条の呉服商 井筒屋伝兵衛と、先斗町近江屋の遊女 お俊が、聖護院の森で心中する
二人の心中事件は、近松門左衛門の浄瑠璃「近頃河原達引」で有名になる
1952年(皇紀2612)昭和27年
豊竹山城少椽らの発起によって、聖護院の森に有った積善院に建てられた
<木造 不動明王立像(ふどうみょうおうりゅうぞう)1躯(重要文化財)>
平安時代末期の不動明王
1922年(皇紀2582)大正11年7月15日 重要文化財に指定される
<崇徳院地蔵>
崇徳院地蔵堂に祀られている
聖護院の森の西北(現在の京都大学病院)にあった石像が移されたもの
平安時代末期
崇徳上皇が保元の乱に敗れて讃岐国に流され死去する
その後、15年間もの間に京都では大火・疫病流行・大地震などの災厄が続き、崇徳上皇の怨霊の祟りとされ、
崇徳上皇の怨霊を慰めるために、庶民たちにより、崇徳院地蔵が造られたといわれる
「すとくいん」が「ひとくい」と訛り、「人食い地蔵」とも称されるようになった
<牛玉宝印>
<五大力尊法要>
2月23日
秘仏五大力菩薩が一日だけ開帳され、法要が行われる
本堂に、山伏が、法螺貝を鳴らしながら入室し、大般若経転読法要や護摩供養が行われる