後藤庄三郎(ごとう しょうざぶろう)

桃山時代江戸時代金座の当主、幕府 御金改役を世襲した名跡

初代:後藤庄三郎 光次
生年:1571年(皇紀2231)元亀2年
没年:1625年(皇紀2285)寛永2年7月
享年:55

初代から11代:後藤庄三郎家が世襲
12代・13代:分家 後藤三右衛門家から輩出
14代:京都 後藤四郎兵衛家から輩出


 後藤庄三郎(ごとう しょうざぶろう)は、桃山時代江戸時代金座の当主、幕府 御金改役を世襲した名跡

 初代 庄三郎が、大判座後藤家 後藤四郎兵衛の職人として働き、後藤家五代 後藤徳乗の名代として江戸に下向する
 大判座後藤家は、室町幕府以来の御用金匠(彫金師)であった

 後藤庄三郎は、幕府の金山・銀山を支配し、徳川家康の財政、貿易などの顧問として権力をもった

 庄三郎が「後藤」を称するのは1代限りとされていたが、その後、幕府 御金改役を世襲した

 後藤庄三郎家、茶屋四郎次郎の茶屋家、角倉了以の角倉家は、京都の三長者と称された

【後藤庄三郎の経緯・歴史】


金座

 <金座
 江戸幕府から、大判を除くすべての金貨の鋳造を独占的に請け負った貨幣鋳造組織
 当初は、「小判座」と称された

 金貨の鋳造、通貨の発行という現在の中央銀行業務に相当する役割を担っていた

 江戸・京都・佐渡・駿河にも順次、開設された

 当初、金貨鋳造所はなく、幕府から金貨鋳造の許可を得た「金吹き」と称される小判師が後藤家の指図の下、
自宅で原判金を鋳造していた
 原判金は、後藤家の屋敷内に設けられた後藤役所で検定され、後藤家の極印を打たれて初めて貨幣としての価値が生まれた

 その後、江戸の本郷霊雲寺近辺に吹所(鋳造所)が設置され、
京都などでの鋳造は中断され、原判金の鋳造や検定・極印打ちの作業は本郷の鋳造所に集約された
 さらに、本郷の吹所が廃止され、再び本町1丁目の後藤家の屋敷で鋳造作業が行われるようになり、幕末まで続いた


 <武蔵墨書小判(むさしすみがきこばん)>
 「武藏壱両光次」の花押が墨書された小判
 大判しかなかったところ、徳川家康により、流通貨幣としては小判も必要と考えられ、
後藤庄三郎の後藤役所で鋳造された最初の貨幣

【後藤庄三郎家】

 桃山時代江戸時代金座の当主、幕府 御金改役を世襲した名跡

 徳川家康により、後藤庄三郎の名跡と、五三桐紋の使用を許された

 江戸本町一丁目(現在の日本橋本石町:日本銀行本店)を拝領し、後藤屋敷を建て、
屋敷内に小判を鋳造・検査する後藤役所を設けた

 京都にも後藤役所出張所を設け、金座が築かれる


 幕府領の金山から産出する吹金(鉱石を溶かして金銀銅を取り出し貨幣を鋳造すること)を独占して扱い
 鋳造した貨幣を検定し、これに極印を打ち、一定の品位・重量・形状を保証する幕府 御金改役を担っていた

 小判に鋳造する場合の手数料は、慶長期初期は吹高10両につき金目五分であったが、
後に吹高1000両につき10両と定められた


 最初の小判には「武蔵壹兩光次(花押)」と、初代 後藤庄三郎光次の名前が入って墨書され、
 幕末まで「光次」の名の入った極印が打たれている


 初代 後藤庄三郎光次は、徳川家康の厚い信任を得て、側近の一人として幕府財政にも深くかかわり
朱印状の発給や、外交交渉にも尽力した

【その他】

 <金座跡碑
 御池通から両替町通を上がったところの道路端に立てられている


 <石清水八幡宮 旧末社 相槌神社(あいつちじんじゃ)>
 男山の東麓、表参道の七曲がりのすぐ下の山麓にある
 かつて末社であったが、現在は独立社となっている
 1696年(皇紀2356)元禄9年  後藤庄三郎が、麓の山の井脇に社殿を建立したといわれる


【京都検定 第23回1級】

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