地図情報
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、八幡市の男山山頂にある神社
王城守護の神、王権の神として歴代朝廷に崇拝され、伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟とされている
宮中の四方拝で遥拝される一社
源氏が氏神としたことから、清和源氏の足利氏・徳川氏・今川氏・武田氏なども氏神とし、
武の神、弓矢の神、戦勝の神さんとして武家の信仰も厚かった
八幡宮総本社の宇佐神宮(大分県宇佐市)から勧請されたもので、日本三大八幡宮の一つ
源頼義による壺井八幡宮や源頼義・源頼朝による鶴岡八幡宮など、石清水八幡宮から勧請されて、
全国に数多くの八幡宮が建立された
創建時より明治維新までは、境内の護国寺と一体になる宮寺形式の神仏習合の神社で、付属の寺院が多数存在していた
日本三大勅祭の一つの石清水祭は、平安時代から仏式で行われていた放生会が由来
男山の地は、京都の裏鬼門(南西)にあたる
桂川・宇治川・木津川の3つの川の合流点を挟んで天王山と対峙する交通の要所であり、
政治的・軍事的にも重要な拠点である
染井吉野、ボタン桜などの桜の名所
<八幡三所大神(八幡大神)>
祀られている三座の神の総称
八幡大神は、「世は変われども神は変わらず」と託宣された
都の守護神、国家安泰の神として朝廷や広く国民に篤い崇敬を受けている
清和天皇の嫡流である源氏一門は八幡大神を氏神として尊崇し、全国各地に八幡大神が勧請された
源義家は、石清水八幡宮で元服し、自らを「八幡太郎義家」と名乗った
以来、国家鎮護、厄除開運、必勝・弓矢の神として信仰を受けてきている
<中御前>
誉田別尊(応神天皇)
<西御前>
比咩大神 (ひめおおかみ)(宗像三女神:多紀理毘売命(たぎりびめ)、市寸島比売命、多岐津比売命(たぎつひめ))
<東御前>
息長帯比売命(神功皇后)
<神像>
主祭神三体は、神像として本殿内に祀られている
垂迹形(俗人姿)の坐像で、僧形八幡の男神一体と、女神二体が、椅子の上に安置されている
背後左右には、10体の髭面の若宮神像が並んでいる
約8万坪の広さがある「石清水八幡宮境内」と「松花堂およびその跡」が、国の史跡に指定されている
10棟(本殿・瑞籬・幣殿舞殿・楼門・東門・西門・廻廊3棟・摂社武内社本殿)および附・棟札3枚が国宝に、
9棟(西総門・東総門・北総門・五輪塔・水若宮社本殿・住吉社本殿・若宮殿社本殿・若宮社本殿・狩尾社本殿)が
重要文化財に指定されている
表参道は「大坂」、裏参道は「太子坂(奉行坂)」と称される
山頂の廻廊の中に、南から楼門、舞殿(ぶでん)、弊殿、本殿の外殿(がいでん)、内殿(ないでん)と建ち並んでいる
通常は、楼門より中には入れない
廻廊の手前には築地塀(ついじべい)があり、正面の西総門と東総門、北総門がある
南北朝時代の「石清水八幡宮末社紀」や、1848年(皇紀2508)嘉永元年の「男山考古録」によると、
30社ほどの摂社・末社があったとされる
現在の神社配布の「石清水八幡宮由緒略記」によると、境内の内外に摂社8社・末社7社が祀られている
南北朝時代の「石清水八幡宮末社紀」や、1848年(皇紀2508)嘉永元年の「男山考古録」によると、
30社ほどの摂社・末社があったとされる
現在の神社配布の「石清水八幡宮由緒略記」によると、境内の内外に摂社8社・末社7社が祀られている
仏像・彫刻
<木造 童形神坐像(どうぎょうしんざぞう)4躯(重要文化財)>
平安時代や鎌倉時代のもの
桧材・彩色仕上げ、高さは約17cmから47.5cm
髪をみずらに結い(左右に分けた髪を両耳上で束ね垂れ下げた形)、袍を着て帯を締めた童形の男神像が5躯
彩色の唐服をまとった女神像が2躯
僧侶の姿のものが1躯
どの像も、神像としての役目を終え魂を抜かれた状態であることを示すために手足の一部が欠失している
1991年(皇紀2651)平成3年3月
校倉の中から、大小20数個のバラバラの木片が発見され、組み合わせられ8躯の古神像になった
2006年(皇紀2666)平成18年6月9日
8躯のうち、平安時代末期から鎌倉時代中期にかけて製作されたと見られる男神像4躯が、
重要文化財に指定された
<木像神像 4躯(京都府指定文化財)>
発見された8躯のうち、重要文化財に指定されなかった4躯
障壁画・襖絵・絵画
<松鳩図絵馬(八幡市指定美術工芸品)>
円山応挙の筆
<八幡垂迹曼荼羅図(七社御影図)>
僧形の八幡大神が中央上部、右に神功皇后、若宮、武内宿禰(高良明神)、左に比咩大神、若宮殿(姫若宮)、
高良明神(武内宿禰)の7神の坐像が描かれている
室町時代のもの
<石清水八幡宮縁起絵巻 上巻・下巻の2巻>
詞書の間に絵が挿入されており、各巻7景ずつ計14景が描かれている
上巻には、仲哀天皇の塵輪退治、神功皇后の御出陣、老翁(住吉大神)の活躍が2景、
安曇磯良出現、豊姫の竜宮訪問、新羅軍の来襲と干珠・満珠の威力などが描かれている
下巻には、新羅王の降服、応神天皇の誕生、応神天皇の御代の隆盛、八幡大神御示現に関わる場面2景、
宇佐宮宝前に額ずく和気清麻呂、行教による石清水遷座の場面が描かれている
1728年(皇紀2388)享保13年
橘継雄により模写されたことが、下巻奥書に記されている
1433年(皇紀2093)永享5年に足利義教が奉納した土佐光信筆の国宝の原本は、
1947年(皇紀2607)昭和22年2月に焼失した
写本絵巻と、焼失前に撮影された原本写真と比較すると、あまり正確に模写されていないとされる
<八幡宮縁起絵巻 1巻>
1289年(皇紀1949)正応2年
正応二年作との奥書がある
工芸品
<石燈籠(いしどうろう)1基(重要文化財)>
1295年(皇紀1955)永仁3年
「永仁三年三月」の刻銘がある
1962年(皇紀2622)昭和37年2月2日 重要文化財に指定される
<豊臣秀吉奉納釣灯籠 >
1587年(皇紀2247)天正15年に豊臣秀吉から奉納された
火袋柱には「豊臣太政大臣、天正十五年五丁亥年、八月良辰、宿坊、瀧本坊」の文字が彫られている
<金剛三鈷杵>
平安時代のもの
<クリス剣>
室町時代のもの
<霊元法皇奉納雅楽器>
江戸時代の笙、篳篥、連管、太鼓、羯鼓、鉦鼓
古文書
<石清水八幡宮田中宗清願文(たなかそうせいがんもん)2巻(重要文化財)>
1232年(皇紀1892)貞永元年
石清水八幡宮 法印 田中宗清が発願者となって、16歳で亡くなった弟 章清の冥福を祈る追善供養のために作成された願文の2巻
1999年(皇紀2659)平成11年6月7日 重要文化財に指定される
<石清水八幡宮文書(もんじょ)2,122点(重要文化財)>
巻物810巻、冊子本368冊、折本21帖、書状897通、掛軸5幅、地図等10鋪、落款等11顆
平安時代中期から江戸時代の古文書
文書が伝来してきた家によって、田中家文書・菊大路家文書・東竹家文書・神官諸家・その他の文書に大別される
1961年(皇紀2621)昭和36年2月27日 重要文化財に指定される
藤原宣孝「大宰府符」
石清水八幡宮文書の田中家文書の一つ
992年(皇紀1652)正暦3年の当時大宰府の役人であった奉行 藤原宣孝(後の紫式部の夫)の自筆署名が遺されている
書跡・典籍
<石清水八幡宮護国寺略記(ごこくじりゃっき)1巻(重要文化財)>
石清水八幡宮寺の開山 行教の述作
法印権別当 宗清(そうせい)の自筆
原本は現存しない
1232年(皇紀1892)寛喜4年
寛喜四年法印宗清の奥書がある
2000年(皇紀2660)平成12年6月27日 重要文化財に指定される
<類聚国史(るいじゅうこくし)(巻第一、巻第五)2巻(重要文化財)>
1227年(皇紀1887)嘉禄3年
巻第一嘉禄三年五月十九日書写の奥書があり
1963年(皇紀2623)昭和38年7月1日 重要文化財に指定される
<蚯蚓の糸印(みみずのいといん)>
1589年(皇紀2249)天正17年11月20日付
豊臣秀吉が石清水八幡宮祠官家の田中秀清に宛てた領地朱印状
豊臣秀吉の印文が不明で、ミミズが這ったようにも見えることから名付けられている
<元結の御教書>
官軍の猛攻を受けて一時期、九州に落ちのびた足利尊氏が、再び軍勢を率い上洛しようと密かに使者を
石清水八幡宮に送り、戦勝祈願を善法寺通清に依頼したといわれる文書
使者が髪を束ねる元結(もとゆい)に隠して運んだといわれることから名付けられている
善法寺家は石清水祠官家嫡流の田中家の支流
南北朝時代に、田中家は南朝寄り、善法寺家は足利氏が支持する北朝寄りで、善法寺通清の娘 良子が
3代将軍 足利義満の生母となる
室町幕府歴代将軍の自筆願文や寄進状などが伝えられてきた
<裏鬼門>
男山の地は、都の裏鬼門(南西の方角)にあたり、鬼門(北東の方角)に位置する延暦寺とともに都の守護、
国家鎮護の社とされた
鬼門封じのため、社殿の石垣の東北の角が切りとられている
<流れ左三つ巴紋>
石清水八幡宮の神紋
本殿の彫刻や軒瓦など各所にあり、尾が長い文様ほど古いとされる
幣殿の蟇股には4つの巴紋の彫刻があるが、
1つだけ、社殿がまだ未完成であり、今後も発展を遂げるという祈願と縁起が込められて右巴があるといわれる
<橘の神紋>
「流れ左三つ巴紋」とともに石清水八幡宮の神紋
石清水八幡宮を宇佐八幡宮から勧請した行教の家紋が橘であることと、
創建時の六宇宝殿を建立したのが木工寮権允 橘良基であったことに由来する
<徒然草>
徒然草第52段「仁和寺のある法師」
仁和寺の老僧が「一生に一度は石清水八幡宮へ行きたい」との念願が叶って参拝に出向いた
男山のふもとにある高良社や極楽寺などを参拝して、そこが石清水八幡宮の本宮だと思い込んでしまい
山には登らずに帰ってしまった
そして、仲間たちに「評判以上の尊い神社だった、参拝者の人たちが、みんな山に登って行っており、
山の上に何があったのか気になったけれども、神さんに参拝するのが目的だったので観光はせずに帰ってきた」と話す
「どんな小さなことをするにも案内人が必要である」という故事
<走井餅>
歌川広重の「東海道五十三次」にも登場する大津名物
明治時代末期から表参道で売られる名物菓子
<全国八幡宮連合>
全国の八幡大神を祀る神社でつくる全国八幡宮連合の総本部が石清水八幡宮に置かれている
<八幡山>
祇園祭の山鉾の一つ
石清水八幡宮が祀られ、総金箔の社殿に、鳥居の笠木の上には、二羽の鳩が向かい合ってとまっている
<松花堂昭乗>
「寛永の三筆」と称される僧侶
1600年(皇紀2260)慶長5年
17歳の時、瀧本坊実乗のもとで剃髪をして社僧となる
晩年のために中腹の住坊 泉坊の一隅に方丈を建てて「松花堂」と称した
京都通メンバページ
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