豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、戦国時代から桃山時代の武将
農民の子として生まれ、松下之綱から織田信長の家臣となり、明智光秀が織田信長を討ったのを受けて、実権を掌握し、
全国統一を成し遂げる
内裏跡に豪華雄壮な聚楽第を建立したり、御土居の建設など多くの京都の都市改造政策を行い、
織田信長が破壊した京都を復興させ、現在の京都の基盤を作り上げる大きな功績を残す
晩年に伏見に築いた伏見城において死去する
<北野大茶会>
1587年(皇紀2247)天正15年10月
北野天満宮において、千利休らと共に催される
太閤井戸が残る
そのときに献上された長五郎餅が大賞賛され、名物菓子となる
<聚楽行幸>
1588年(皇紀2248)天正16年4月
後陽成天皇が聚楽第に行幸される
その参列は、先頭が聚楽第に到着しても、後尾はまだ御所を出発していないほどだったといわれる
酒宴、管弦など3日間以上行われ、参列した諸大名に、朝廷への尊崇と、豊臣秀吉への忠誠を誓わせ、
朝廷、諸大名の両方に自らの権威を誇示した
御所へ銀5万両、仙洞御所へ地子米300石、智仁親王へ500石、諸門跡・公家へ計8000石が献上された
<千僧供養>
1595年(皇紀2255)文禄4年
方広寺の大仏殿が完成し、経堂とされた妙法院において、豊臣秀吉の両親や先祖の菩提を弔うため、
当時の日本仏教の八宗(天台宗、真言宗、臨済宗、律宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、浄土真宗)の僧を
1000人以上集めた「千僧供養」が行われる
<醍醐の花見>
1598年(皇紀2258)慶長3年3月15日
豊臣秀吉が自ら作庭を手がけた醍醐寺の塔頭三宝院において、大規模な花見が行われる
<豊国廟>
阿弥陀ヶ峰の山頂
豊臣秀吉の遺命により、すぐさま遺体が阿弥陀ヶ峯に葬られる
<豊国神社>
豊臣秀吉が葬られた阿弥陀ヶ峯の麓に、境内30万坪を誇る壮麗かつ壮大な社殿が創建され、
後陽成天皇から「正一位」の神階と、「豊国大明神」の神号を賜る
<出世稲荷神社>
豊臣秀吉が、聚楽第の敷地内に稲荷社を勧請して創建したのが由来
豊臣秀吉の飛躍的な出世にあやかり、信仰されている
<御香宮神社>
豊臣秀吉が、伏見城を築城するときに、願文と太刀(重要文化財)を献じてその成功を祈願し、
御香宮神社を大亀谷(おおかめだに)に移して、鬼門除けの守護神として勧請し、社領三百石が献じられる
<新日吉神宮>
豊臣秀吉が、樹下社(このもとのやしろ)に祀られている
<北野天満宮>
北野大茶湯が催されたところで、太閤井戸が残る
<建勲神社>
本能寺の変の後、豊臣秀吉が、正親町天皇の勅許を得て、船岡山を、主君である織田信長の霊地と定め祀る
<方広寺>
豊臣秀吉が、奈良東大寺以上の大仏の建立を計画し、大仏殿と大仏の造営を行ったところ
徳川家康より梵鐘の銘文について異議が唱えられた「鐘銘事件」により破壊される
正面通の名前の由来となっている寺院
<三宝院>
豊臣秀吉の絶大な庇護を受けて再興され、「醍醐の花見」が行われる
豊臣秀吉自らが「縄張り」を行ったといわれる名庭(国の特別史跡、特別名勝)がある
<高台寺>
豊臣秀吉の正室 ねねが、生母を供養するために創建した康徳寺が由来
豊臣秀吉の菩提を弔うため、ねねが、徳川家康の政治的配慮からの多大な財政的援助を得て「高台寺」とする
豊臣秀吉とねねの木像が安置され祀られている霊屋(重要文化財)がある
門前は「ねねの道」と称せられる
<西本願寺>
織田信長が徹底的に弾圧していた浄土真宗を保護し、
現在の地に寺領を与え、御影堂と阿弥陀堂を建立させて、死後の神格化を図ろうとしたといわれる
<智積院>
豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松のために建てた祥雲寺であったが、
後に、徳川家康が、豊臣秀吉の神格化を防ぐために、豊臣秀吉が弾圧した智積院に、その寺領を与えた
<三十三間堂>
方広寺を創建するときに、その千手堂(せんじゅどう)とされた
豊臣秀吉が建立した築地塀(重要文化財)や南大門(重要文化財)が残る
<大徳寺>
豊臣秀吉が、織田信長の葬儀を大徳寺で盛大に行う
<総見院>
豊臣秀吉が、織田信長の菩提寺として創建した大徳寺の塔頭
<玉鳳院>
豊臣秀吉と淀君の長男 棄丸の御霊屋である祥雲院がある
<豊光寺>
相国寺の塔頭の一つで、豊臣秀吉の追善のために建立された
<建仁寺>
豊臣秀吉により寺領が寄進された
<妙法院>
豊臣秀吉が、方広寺を建立するときに、経堂として現在の地に移築し復興する
両親や先祖の菩提を弔うため、八宗(天台宗、真言宗、臨済宗、律宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、浄土真宗)の
僧を集めた「千僧供養」が行われる
ポルトガル領の副王から豊臣秀吉宛のキリスト教弾圧政策の緩和を求めた書簡「ポルトガル国印度副王信書(国宝)」がある
<妙喜庵>
豊臣秀吉が、明智光秀との「山崎の戦い」前後で本拠地として、千利休を呼んで茶会を開いたといわれる
<龍安寺>
豊臣秀吉が賞賛したといわれる豊臣秀吉寄進の椿の老樹「侘助椿」がある
<龍源院>
豊臣秀吉と徳川家康とが対局したといわれる四方蒔絵碁盤がある
<三千院>
豊臣秀吉により宸殿、客殿が建立された
<黄梅院>
織田信長と、豊臣秀吉の寄進を受けて改築され、その後、毛利家の菩提寺となる
<延暦寺>
豊臣秀吉が開運と福徳を祈願したといわれる大黒天が祀られており、「出世大黒天」ともいわれている
<妙顕寺城跡>
妙顕寺を、小川寺ノ内に移転させ、二条新邸を構築し、聚楽第が完成するまで京都の政庁としていた
周囲に堀がめぐらされ、天主があげられていたという
普段は、前田玄以が居住して、京都の政務にあたり、豊臣秀吉が上洛した際には宿舎となった
以下、応仁の乱や兵火で焼失後、豊臣秀吉により再興された神社寺院
<醍醐寺>
<青蓮院>
<熊野若王子神社>
<大光明寺>
<延暦寺>
<涌泉寺>
<聚楽第>
豊臣秀吉が、平安京の大内裏跡の内野に創建した天守閣を持つ壮大な屋敷
北は一条通、南は丸太通、東は堀川通、西は千本通の広大な敷地を持っていた
いたるところに金箔が貼られた豪華爛漫な建物で、堀が巡らされた城郭だったといわれる
徴集された人夫は8万人以上といわれ、約6ヶ月で落成させたといわれる
<御土居>
都市改造政策の一つとして、京都の周囲に築いた土塁
日本最初の城壁を兼ね、鴨川の氾濫を防いだといわれる
御土居により洛中・洛外が区別されるようになる
<耳塚>
豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)のときの朝鮮・明兵の戦死者の耳・鼻を弔った塚で、豊臣秀吉の命で造られる
<淀城(淀古城)>
豊臣秀吉が、側室茶々の産所として築かせた城
木津川・桂川・宇治川の三川が合流するポイントの北岸にあたり(伏見区納所)に築城され、3面を川に囲まれた天然の要害だった
<五条大橋>
方広寺大仏殿を建造するときに、五条通(現在の松原通)の五条橋を六条坊門小路(現在の五条通)に移し、架け替えさせた
<三条大橋>
豊臣秀吉の命で大改造が行われている
<太閤堤>
豊臣秀吉が伏見城を築城するときに、物資輸送の運搬水路を確保するために、
宇治川と巨椋池を分離させるために築いた石積みの堤防
<正面通>
豊臣秀吉が建てさせた方広寺から、鴨川の正面橋を渡り、本願寺まで続く道
後に、徳川家康が豊臣秀吉の神格化を防ぐために、東本願寺や渉成苑を建てて、道を分断された
<寺町通>
豊臣秀吉の都市改造政策により、洛中に散在していた寺院が集められた通り
<長五郎餅>
豊臣秀吉が、北野大茶湯のときに賞賛された北野天満宮の名物菓子
<真盛豆>
豊臣秀吉が、北野大茶湯のときに「茶味に適す」と賞賛された伝統銘菓
<みたらし団子>
豊臣秀吉が、上七軒が献上した御手洗団子を大いに誉め、商いの特権を与え日本での茶屋の由来となる
<堀川ごぼう>
豊臣秀吉が建てた聚楽第の跡地で生産されるようになった京野菜
<上七軒>
豊臣秀吉が北野で大茶会を開いたときに、豊臣秀吉の休憩所とされ、御手洗団子を献上したところ大いに誉められ、
御手洗団子を商うことの特権と、山城国での法会茶屋株を公許され、日本での茶屋の初まりといわれる
<島原>
豊臣秀吉が、京都の再興のために、二条柳馬場に花街「柳町」を設立した日本で最古の公許遊廊
<初代 池坊専好>
大名 前田邸の四間床に立てた雄大なスケールの立花が秀吉に称賛され、重用されるようになる
<京都の都市改造政策>
京都におけるさまざまな都市改造を行い、応仁の乱で大半が焼失した京都を復興させ、
現在の京都の基盤を築き、大きな貢献を果たした
<商業統制>
貨幣の鋳造を促進
商工業の発展を妨げる座を廃止して楽市楽座を広げる
豪商を保護して朱印船貿易を推進した
<税制>
太閤検地により、検地の方法や計量の基準を全国的に一定にした
武士以外の者から武器を取りあげる刀狩り令を発して、兵農分離を徹底させて身分制度を確立する
農民は、検地により耕作権を保証される代わりに年貢負担を義務づけられ、土地から離れられなくなった
洛中の町費が間口に応じて決められたため、間口が狭くて奥行が長い「鰻の寝床」の京町家が形成される