恭仁京(くにきょう)

奈良時代の一時期、都が置かれたところ

正式名称:大養徳恭仁大宮(やまとくにのおおみや)

所在地:木津川市加茂町例幣   地図情報

国の史跡(1957年(皇紀2617)昭和32年7月1日)

 恭仁京(くにきょう)は、奈良時代の一時期、約4年間、聖武天皇により都が置かれたところ

 山背国相楽郡恭仁の地で、現在の木津川市加茂地区にあたる

【恭仁京の歴史・経緯】

【恭仁京】

 <恭仁宮>
 当初計画では、平城京をしのぐ大規模な京域を設定していたといわれる
 平城京を簡略化した程度で、南北約750m、東西約560mの南北に長い長方形
 朝堂院も平城宮より東西に幅が狭く、板塀で囲まれていた
 恭仁宮の南北を分断するように大河の泉川が蛇行していた

 <背景>
 聖武天皇は、大仏造立のための適地を探していた
 右大臣 橘諸兄は、自らの勢力圏に都を移したい意図があったといわれる
 橘諸兄の井手別業は、恭仁宮の北西約5kmほどの近距離にあった

 万葉集に、恭仁京と難波京の讃歌はいくつかあるが、紫香楽を詠んだ歌は一首もない
 橘諸兄などの一派が、紫香楽遷都を快く思っていなかったためといわれる

 <近江紫香楽宮への遷都後>
 恭仁宮の跡地は山城国の国分寺として再利用される
 国分寺は、南北3町(約330m)、東西2町半(約275m)の広大な寺域であった
 大極殿は、金堂に転用された
 金堂の東側は、鎮守社である御霊神社の境内地だったといわれる

【恭仁京に関わる歌】

 <大伴家持>
 内舎人 大伴家持は、恭仁京で40首ほどの歌を残している

 743年(皇紀1403)天平15年8月16日
 内舎人 大伴家持の久迩京(くにのみやこ)を讃めた一首
 「今造る 久迩の都は 山河の さやけき見れば うべ知らすらし(万葉集巻六 1037)」

 大伴家持が、安倍女郎に贈る一首
 「今造る 久迩の都に 秋の夜の 長きに独り寝(ぬ)るが 苦しさ(万葉集巻八 1631)」

 紀小鹿女郎(きのおしかのいらつめ)の大伴家持に贈る歌
 「戯奴がため 我が手もすまに春の野に 抜ける茅花(つばな)ぞ 召して肥えませ(万葉集巻八 1460)」

 大伴家持の紀小鹿女郎に贈る歌
 「吾が君に 戯奴は恋ふらし給りたる 茅花を喫めどいや 痩せにやす(万葉集巻八 1462)」

 <中納言兼輔>
 「みかのはら わきて流るる泉川 いづみきとてか 恋しかるらん」

【恭仁京ゆかりの地】

 <恭仁宮跡(山城国国分寺跡)(国の史跡)>
 現在は、広大な平原となっており、大極殿(金堂)礎石と七重塔礎石が残る

 <海住山寺
 恭仁京があった瓶原(みかのはら)を見下ろす三上山(海住山)の中腹に建つ寺院

【恭仁京跡へのアクセス】

 JR関西本線(大和路線) 加茂駅 西口より徒歩約30分
 加茂駅よりコミュニティバス(奥畑線・銭司線・西線) 恭仁宮跡 下車すぐ


【京都検定 第8回2級】

【京都検定 第11回1級】

[インデックス]


京都通メンバページ


[目次]


[関連項目]


[協賛リンク]



[凡例]

赤字
 京都検定の出題事項
 (過去問は下段に掲載)

ピンク
 京都検定に出題された
項目へのリンク

青色紫色
 関連項目へのリンク