恭仁京(くにきょう)は、奈良時代の一時期、約4年間、聖武天皇により都が置かれたところ
山背国相楽郡恭仁の地で、現在の木津川市加茂地区にあたる
<恭仁宮>
当初計画では、平城京をしのぐ大規模な京域を設定していたといわれる
平城京を簡略化した程度で、南北約750m、東西約560mの南北に長い長方形
朝堂院も平城宮より東西に幅が狭く、板塀で囲まれていた
恭仁宮の南北を分断するように大河の泉川が蛇行していた
<背景>
聖武天皇は、大仏造立のための適地を探していた
右大臣 橘諸兄は、自らの勢力圏に都を移したい意図があったといわれる
橘諸兄の井手別業は、恭仁宮の北西約5kmほどの近距離にあった
万葉集に、恭仁京と難波京の讃歌はいくつかあるが、紫香楽を詠んだ歌は一首もない
橘諸兄などの一派が、紫香楽遷都を快く思っていなかったためといわれる
<近江紫香楽宮への遷都後>
恭仁宮の跡地は山城国の国分寺として再利用される
国分寺は、南北3町(約330m)、東西2町半(約275m)の広大な寺域であった
大極殿は、金堂に転用された
金堂の東側は、鎮守社である御霊神社の境内地だったといわれる
<大伴家持>
内舎人 大伴家持は、恭仁京で40首ほどの歌を残している
743年(皇紀1403)天平15年8月16日
内舎人 大伴家持の久迩京(くにのみやこ)を讃めた一首
「今造る 久迩の都は 山河の さやけき見れば うべ知らすらし(万葉集巻六 1037)」
大伴家持が、安倍女郎に贈る一首
「今造る 久迩の都に 秋の夜の 長きに独り寝(ぬ)るが 苦しさ(万葉集巻八 1631)」
紀小鹿女郎(きのおしかのいらつめ)の大伴家持に贈る歌
「戯奴がため 我が手もすまに春の野に 抜ける茅花(つばな)ぞ 召して肥えませ(万葉集巻八 1460)」
大伴家持の紀小鹿女郎に贈る歌
「吾が君に 戯奴は恋ふらし給りたる 茅花を喫めどいや 痩せにやす(万葉集巻八 1462)」
<中納言兼輔>
「みかのはら わきて流るる泉川 いづみきとてか 恋しかるらん」
<恭仁宮跡(山城国国分寺跡)(国の史跡)>
現在は、広大な平原となっており、大極殿(金堂)礎石と七重塔礎石が残る
<海住山寺>
恭仁京があった瓶原(みかのはら)を見下ろす三上山(海住山)の中腹に建つ寺院