摂取院(せっしゅいん)は、伏見稲荷大社の南、
伏見街道のJR奈良線の踏切り前にある寺院
伏見街道に面して地蔵堂があり、腹帯地蔵尊が祀られている
<山門>
<本堂>
<地蔵堂>
伏見街道に面して建っている
腹帯地蔵尊が祀られている
堂の前には「腹帯地蔵尊」の石碑がある
<地蔵尊祠>
地蔵堂の前にある小さな祠
祠の前には「地蔵尊」の石碑がある
<常夜灯>
1844年(皇紀2504)天保15年の銘がある
<腹帯地蔵尊(ふくたいじぞうそん)(京都府指定文化財)>
寄木造 半丈六坐像
約2.5m
平安時代末期のもの
解体修理のとき、後頭部裏に、文明17年6月18日(1485年(皇紀2145)文明17年)と記された墨書が見つかった
安産のご利益があるといわれる
江戸時代初期 1608年(皇紀2268)慶長13年の3月
伏見 稲荷山の山麓に住んでいた西村一門方のところにお坊さんが訪れ、
夢枕にお地蔵さんが現れ「私は比叡山にある雲母坂に長い間、埋もれている子安腹帯(こやすふくたい)の地蔵です
このままでは、世の中の女性の難産を救うことはできません」と告げられたといい、
その場所に行って、お地蔵さんを探して連れ帰り、世の中のご婦人が難産から免れるように祀ってください
と言い残して去っていったといわれる
西村一門方は、お坊さんにいわれたように雲母坂に行ってみると
お告げの通り、大きなお地蔵さんを見つけて
西村一門方は、背中に背負い持ち帰り、小庵を建てて安置した
それ以来、腹帯地蔵への安産祈願に多くの人が訪れたといわれる
延宝年間(1673年~1681年)
伊勢津藩第3代 藤堂高久が安産祈願をして世継ぎを得た
将軍 徳川吉宗に降嫁された、伏見宮貞致親王の姫 真宮理子女王が、腹帯地蔵への祈願によりご懐妊されたといわれ
米30俵と葵の御紋付膳椀の寄進を得たといわれる