北垣国道(きたがきくにみち)は、明治時代の官僚・政治家・男爵で、第3代京都府知事
勧業政策に重きを置き、「百年の計」とする琵琶湖疏水建設、京都商工会議所を創設した
第2代 槇村正直時代の強権手法と異なり、府会や府民も巻き込みながら老練に府政を推進したといわれる
内務次官、北海道庁長官を経て、晩年は「静屋」と号して京都で過ごす
<京都−宮津車道開削>
1881年(皇紀2541)明治14年5月24日
京都府議会は、京都と宮津を結ぶ車道の開削について可決、11月より着工
1889年(皇紀2549)明治22年8月完成
山陰街道を北上し、福知山市河守から志高・久川・由良・長尾峠・宮津へと通じる
京都と日本海を結ぶ大動脈として、物資の流通、軍港建設の資材運搬に貢献する
田邊朔郎も携わっていたといわれる
<琵琶湖疏水>
明治維新による沈みきった京都に活力を呼び戻すために建設を計画
琵琶湖疏水の水力で新しい工場を興し、舟で物資の行き来を盛んにしようとした
福島県の安積疏水の主任技師 南一郎平に琵琶湖疏水計画の調査を依頼し、
大津京都間の測量を島田道生に命じ、東京の工部大学校を卒業したばかりの田邊朔郎を土木技師に採用した
1885年(皇紀2545)明治18年に着工
1890年(皇紀2550)明治23年9月に第一疏水が完成