槇村正直(まきむらまさなお)は、明治時代の官僚・政治家
京都の人情と風土を「頑固・柔奸・狐疑」と酷評し、その改善を目標に、
第二代京都府知事となり、果断な実行力で京都近代化政策を実施し、東京奠都後の京都復興に尽力した
槇村正直は、東京奠都により衰退した京都の文化・産業・経済を振興するために尽力した
会津藩出身の山本覚馬、京都出身の明石博高ら有識者を重用して
京都の近代化のために勢力的にかつ果敢に京都近代化政策を実施した
槇村正直は、初代京都府知事 長谷信篤の副知事(京都府 大参事)時代から、実権を握っていたといわれ、
京都府大参事となってから、すぐに欧米の技術導入に着手し、海外に派遣して技術の習得に努めた
槇村正直の施策に呼応した「町衆」と称される京都の商工業者たちにより京都の近代化が確立していく
これにより、京都における日本最初の小学校の設立や、化学・精密機械・織物・染物など幅広い産業の発展につながっていった
<京都近代化政策>