千種忠顕卿遺跡(ちくさただあききょういせき)

道標の所在地:京都市左京区山端壱町田町   地図情報

 千種忠顕卿遺跡(ちくさただあききょういせき)は、公家 千種忠顕が戦死を遂げた場所

 足利軍から後醍醐天皇を護るために戦い、雲母坂の北、比叡山の麓(修学院音羽谷)で、戦死する

【千種忠顕】

 千種忠顕(ちぐさただあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公家

 権中納言 六条有忠の次男で、千種家の祖となる

 「伏見天皇宸記」によると
 1290年(皇紀1950)正応3年
 東宮権大進として胤仁親王(後伏見天皇)に仕えていた

 学問よりも、笠懸や犬追物など武芸を好み、淫蕩、博打にかまけていたため父親 六条有忠から義絶される

 その後、後醍醐天皇の近臣となり、皇太子 邦良親王の早期即位を画策する父親と敵対した

 1332年(皇紀1992)元弘2年/正慶元年の元弘の乱の後
 後醍醐天皇の隠岐島流罪にも随従している

 1333年(皇紀1993)元弘3年/正慶2年
 後醍醐天皇とともに隠岐を脱出して伯耆の名和長年を頼り、船上山に挙兵する
 頭中将に任じられ、山陰の軍勢を率いて足利尊氏や赤松則村らとともに六波羅探題攻めに参戦している
 奥州白河の結城宗広、親朝親子など、各地の豪族に綸旨を伝え、後醍醐天皇による倒幕運動に寄与した

 建武の新政では、結城親光、楠木正成、名和長年らと共に「三木一草」と称される
 従三位参議や雑訴決断所寄人となり、佐渡国など3ヶ国の国司職と北条氏の旧領10ヶ所を拝領する

 その後、万里小路宣房らとともに出家する

 足利尊氏が新政から離反すると、新田義貞や北畠顕家らと共にこれを追い、足利勢を九州へ追いやる

 翌年
 再び京都へ迫ってきた足利直義の軍と対戦し、愛宕郡西坂本の雲母坂(現在の修学院音羽谷)にて戦死する

【千種忠顕卿戦死の地】

 <道標「雲母坂 千種忠顕卿遺跡是より三十町」>
 左京区山端壱町田町
 高さ156cm、幅26cm、奥行16cm
 1926年(皇紀2586)大正15年5月の建立
 白川通の西側、「鷺森神社 東へ二丁」の石碑の横にある
 白川通を渡り東に音羽川をさかのぼり、雲母坂の北、比叡山の麓(修学院音羽谷)で、戦死する

 <千種忠顕卿戦死之碑>
 修学院音羽谷
 叡山ケーブル比叡駅から右手に階段を登った山際に石碑が立つ
 高さ約3m、巾約65cm、基壇は三段の切石で積まれ、墓地の郭は東西南北約9m
 撰文 京都大学教授 三浦周行
 基壇の銅板に、建立者の「六条有熙、小林正直、碓井小三郎、三浦周行、掃雲斉千種顕男」の名前がある
 1926年(皇紀2586)大正15年5月の建立

 足利尊氏が、京に攻め上るが、千種忠顕、名和長年らが瀬田を守り、尊氏形勢不利で一旦は兵庫の港より九州へ逃走する
 再び、足利軍が京都に向かい、これを迎え撃つ楠木正成、名和長年らが戦死する
 千種忠顕は、後醍醐天皇比叡山延暦寺へ移し、 京の白川口、八瀬口から四明岳へ攻め登る足利軍を、雲母坂で防ぐ
 大軍の足利勢に坂下の水飲場で攻められ、さらに松尾谷の背後からも攻め込まれる
 1336年(皇紀1996)延元元年/建武3年6月7日
 千種忠顕は、足利尊氏の弟 足利直義との戦いに敗れ、丸子の小高い丘で戦死する

 <千種塚旧址>
 「千種忠顕卿戦死之碑」の北方約200mの登山道の左側に石標がある
 高さ約1.4m、幅約50cm、建立年代は不明

 <水飲対陣の碑>
 鷺森神社の東方山の中にある

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