丹後国分寺跡(たんごこくぶんじあと)


所在地:宮津市国分   地図情報

国分寺正式名称:金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)
国分尼寺正式名称:法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)

国の史跡

 丹後国分寺跡(たんごこくぶんじあと)は、宮津市国分にある全国に建立された護国を祈る国分寺の一つの跡

 天橋立の西側、阿蘇海の向かい、成相寺への登山道の入口付近にある

 現在の遺跡は、南北朝時代に再興されたときのものとされる

【丹後国分寺跡の歴史・経緯】


【丹後国分寺跡】

 丹後国分寺は、天橋立から阿蘇海(あそかい)を隔てた正面に、一望できる台地に建立された

 丹後国分寺跡は、創建当時の跡地ではなく、鎌倉時代後期に再建された跡地にある
 創建当時の寺域や伽藍配置は不詳

 国の史跡に指定されている

 <礎石>
 跡地に礎石が露出して保存されている

 <中門跡>
 礎石2個が残っている

 <塔跡>
 礎石16個が残っている

 <金堂跡>
 礎石34個が残っている

【丹後国(たんごのくに)】

 古墳時代
 竹野川流域を中心にして繁栄していたといわれる

 713年(皇紀1373)和銅6年4月3日
 丹波国から北部の加佐郡・与謝郡・丹波郡・竹野郡・熊野郡の5郡を分割して丹後国が置かれる

 室町時代
 足利氏の一族である一色氏が丹後国の統一を図る

 1579年(皇紀2239)天正7年7月
 一色氏が細川幽斎に滅ぼされ、細川氏が丹後を支配するようになる

 関ヶ原の戦い後
 京極高知に、丹後守の称号と丹後一国十二万三千石の領地が与えられる

 江戸時代
 宮津、田辺(舞鶴)、峰山に藩庁が置かれる
 久美浜に久美浜代官所が設置され北近畿天領を統括した

【その他】

 <天橋立図>
 雪舟の水墨画「天橋立図」には、丹彼国分寺の五重塔が描かれている
 創建当時の塔は七重塔といわれ、再建後の塔が描かれている

 <丹後郷土資料館(たんごきょうどしりょうかん)>
 丹後国分寺跡に建てられた京都府の施設
 丹後地方を中心とする考古資料・歴史資料・民俗資料が収蔵・展示されている
 丹後のかやぶき民家「旧永島家」(京都府指定有形文化財)もある
 1970年(皇紀2630)昭和45年の設立

【丹後国分寺跡へのアクセス】

 北近畿タンゴ鉄道 宮津線 天橋立駅または岩滝口駅から
 丹海バス 資料館前 徒歩3分

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