室町時代(むろまちじだい)は、広義には、
1338年(皇紀1998)暦応元年に、足利尊氏が室町幕府を開き、
1573年(皇紀2233)天正元年に、15代将軍 足利義昭が織田信長によって追放されるまでの235年間
政治的には、非常に不安定だった時代
<室町幕府>
守護大名による連合政権であり、原則的に合議制だった
<管領>
将軍の補佐役
細川氏、斯波氏、畠山氏の「三管」と称される有力守護大名が交替で就任した
1377年(皇紀2037)天授3年/永和3年
3代将軍 足利義満が、「花の御所」を造営する
1397年(皇紀2057)応永4年
足利義満が、「北山殿」を造営
その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約され一切の政務が行われる
<嘉吉の乱>
1441年(皇紀2101)嘉吉元年
播磨・備前・美作の守護 赤松満祐により、6代将軍 足利義教の暗殺が起こる
1482年(皇紀2142)文明14年
8代将軍 足利義政が、応仁の乱で焼失した浄土寺跡に「東山山荘(東山殿)」を造営し始める
<山城国一揆>
1485年(皇紀2145)文明17年から8年間
南山城の国人や農民らが、守護大名 畠山氏の政治的影響力を排除し自治を行った
<戦国大名>
応仁の乱以降、将軍や三管四職の権威が失墜し、地方を支配する戦国大名が台頭してくる
<北山文化>
3代将軍 足利義満の時代の文化
中央集権的で、公家文化と武家文化の融合や中国文化の影響が大きい
足利義満が北山に建立した鹿苑寺の金閣は、寝殿造と禅宗仏殿を融合させたもので、北山文化の代表建築
観阿弥、世阿弥親子が、足利義満の保護を受け、猿楽・田楽を能楽として大成させる
<東山文化>
8代将軍 足利義政の時代の文化
庶民的で、わびさびの禅宗などの影響が大きい
応仁の乱で、京都は荒廃し、地方の発展にともない文化が地方に伝播していく
足利義政が東山に建立した慈照寺の銀閣は、禅宗仏殿に書院造を合わせた東山文化の代表建築
慈照寺の東求堂の同仁斎は、四畳半の座敷で、初期の書院造で和風建築の原型になる
茶の湯、能楽、絵画など、今日の日本文化の原型が確立されていく
<同朋衆>
室町時代以降、将軍の側近で雑務や芸能にあたった人たちのこと
猿楽や立花・茶の湯・香道・連歌・庭園作りなどの芸能を司った
平安時代には認められていなかった、京都市中への寺院の創建が、鎌倉時代から認められるようになり、
室町時代には、時宗、法華宗(日蓮宗)、浄土宗、一向宗(浄土真宗)、禅宗の新仏教が京都市中に拠点を作り始める
<時宗>
京都市中へ一早く進出し、四条、六条、七条周辺の都市民の指示を得て、道場を次々と創建していく
<日蓮宗>
日蓮のあと日像上人が、京都市中へ躍進させ、
「洛中二十一ヶ寺本山」と称される大寺院群を、京都市中のいたるところに創建し、大きな教団を形成し
「皆法華(かいほっけ)」と称されるほどになる
<臨済宗の京都五山>
室町幕府を中心に、武家層に禅宗が広く広まり、京都郊外で巨大寺院を創建していく
特に、臨済宗の京都五山が武家の篤い保護を受け、仏教を通じて武家文化と貴族文化が融合する
京都五山は、足利尊氏が制定、足利義満により改められる
<浄土真宗>
蓮如上人により再興され、本願寺を中心に信徒集団を形成し、一大勢力になる
織田信長は、徹底的に浄土真宗を弾圧する
<神道>
吉田兼倶が吉田神道を創始し、吉田神社を再興する
<座の形成>
平安時代には、国営の商工人であったが、朝廷政府の弱体化で縮退させられ、
自立して「座(共同組合)」が形成される
権利を確保するために、朝廷貴族や寺院に、一定の貢納品を上納する仕組みができあがる
座の数は60以上あり、戸数は1万から数万戸に達した
町小路(新町通)、室町小路、西洞院大路などで、大棚・小棚を持っていた
<町の再編成>
平安京の条坊制(ブロック制)から、道路の縮小化が進み、通りを挟んでの町ができる
道路を中心とした「両側町」、大路で区分けされた「片側町」ができる
祇園祭の運営主体が、町の共同体を作り上げていく
上京共同体では、5つの町組(ちょうぐみ)、総計120町になり
下京共同体では、5つの町組、総計66町が形成される
町や町組では、入札(いりふだ)によって、「年寄」「乙名(おとな)」「月行事」と称されるリーダ、世話役が選ばれていた
<足利尊氏>
<足利義満>
<足利義持>
<足利義教>
<足利義政>
<足利義視>
<足利義尚>
<足利義輝>
<織田信秀>
<尾和宗臨>
<細川勝元>
<日野富子>
<山名宗全>
<世阿弥>
<蓮如上人>