魚市場遺跡碑(うおいちばいせきひ)は、桃山時代より栄えていた魚市場(うおいちば)の跡地
鴨川と桂川の合流するところにに架かる羽束師橋より約200m下流東岸の堤防に跡碑が立っている
この地域 横大路草津町には、平安時代より水運による物資輸送のための草津の湊(くさつのみなと)が開かれていた
平安時代より、伏見 横大路草津町には、淀川の水運による物資輸送のための草津の湊(くさつのみなと)が開かれていた
桃山時代には、伏見城築城に伴い、横大路には、多くの鮮魚や米麦問屋が建ち並んだ
江戸時代には、幕府により、公設の魚市場が建設された
<魚市場遺跡碑 魚魂碑(ぎょこんひ)>
所在地:伏見区横大路草津町(羽束師橋東詰南)
建立年:1985年(皇紀2645)昭和60年6月
建立者:魚市場遺跡碑再建委員会
大きさ:高214 x 幅112 x 奥行41cm
碑 文:
[北西]
魚市場遺跡【題額】
我横大路邨は往昔草津の湊と称す浪華より平安に通するの要衝にして
平安奠都以還東西行客の来往織るか如く豊公居を桃山にトすると共に百資聚散の枢区となり
大小数千の問屋甍を接して盛に之か配給を司れり殊に生魚の如きは
近くは摂播泉遠きは紀阿淡方面よりし曳船数十隻徹宵澱江を溯り艤操搬運許邪の声之に和して
横大路村に集るや陸路健脚の壮夫を駆て担荷之を運搬し絡繹常に絶ゆるなく
禁裏御所を始め洛中洛外より近畿各地の給需に便せり
慶応元年徳川幕府より一大魚市場の公設を命せらるゝや大橋孫四郎氏率先之か経営の衝に当り
同業者続出一村為に殷賑を極めたりしか明治十年京都神戸間銕路開通の議あるや
一村興廃之か因たらんと大橋仁兵衛奥島八郎兵衛両氏深く之を憂ひ百方輓回の策を講せるも
時代の趨勢亦奈何ともする能はず両氏意を決し慨然涙を呑て京都七条駅頭に魚市場を開設す銕路既に成り
物貨の運輸は果して両氏先見の如く総て文明利器の吸集する所となり曳船の運送忽ち衰頽すると共に
魚市場も亦其跡を滅するに至れり豊公治世以来百貨聚散之か呑吐の中心地として三百有余年間旺盛を誇りし
我横大路村は今也麦隴菜圃の一農村と化し去り復往時を夢想するものなきに至れり
滄桑の変古来其例に泛しからず時勢の変遷蓋し已むを得さる所なりと雖転々隔世の感なしとせず
歳遷ると共に之が遺跡の湮滅せんことを憂ひ大橋一家相謀り喜平治翁の在世を幸に之が事歴を審かにし
此碑を建て以て永く後昆に示さんとす
洛陽僑人的場正三郎撰書
[南東上段]
伏見区横大路は平安京の昔より草津の港として栄え、明治十年京都、神戸間に鉄道が開通するまで一千年の永きに亘り、
水上交通の要衝として東西行客の来往盛んとなり、京への生鮮魚介類の輸送もここを集散の場として賑いをみせていた
しかし鉄道の開通はこの魚市場を廃虚と化し、その伝統は現在の京都市中央卸売市場に受け継がれているが、
旧跡をしのんで大正八年四月大橋家により魚市場遺跡碑が建てられた。
しかしその後の荒廃により京都市中央卸売市場の水産小売業者をはじめ、業界関係者の発起、厚志により、
この地に魚市場遺跡碑が再建された
昭和六十年六月
魚市場遺跡碑再建委員会 委員長 山田定一
[南東下段]
京都水産物小売団体連合会 会長 山田定一【次項・次々項も兼ぬ】
京都水産物商業協同組合 理事長
京都海産物買出組合 組合長
京都水産物商業協同組合 副理事長 増田治一【次項も兼ぬ】
京都乾友会 会長
京都魚菜酢商協同組合 理事長 大八木泰蔵
京都錦水産物協同組合 理事長 桑山皓【次項も兼ぬ】
京都水産物商業協同組合 副理事長
京都府寿司環境衛生同業組合 理事長 荒木信次
京都蒲鉾商組合 組合長 池内常郎
京都水産物商業協同組合 副理事長上京支部長 直海真十郎
同 副理事長南支部長 山根義次
同 副理事長左京支部長 山本光蔵
同 北支部長 黒田幸男
同 中京支部長 渡辺正利
同 下京支部長 西村太一
同 右京、西京支部長 中山健治
同 東山支部長 高田亮太郎
同 山科支部長 西田宗治郎
同 伏見支部長 水谷勉
同 都水産協和会会長 吉田春一
順不同
[台座]
魚魂
大悲山亘令書
京都水産団体 連合会 会長 山田定一
<魚魂碑魚供養>
4月第1日曜日
魚魂碑顕彰会により魚魂碑魚供養の式典が行われている
<車石>
生鮮魚介類魚が陸送されていた鳥羽の作り道(鳥羽街道)には、車道に車石が敷かれ、その上を牛車が通行していた
<「拾遺都名所図会」巻4>
横大路から京都市内への魚運搬の様子が描かれている