貝原益軒(かいばら えきけん)(Ekikenn Kaibara)

江戸時代中期の本草学者(中国の薬物学)、儒学者、博物学者

生年:1630年(皇紀2290)寛永7年11月14日
没年:1714年(皇紀2374)正徳4年8月27日
享年:85

父親:貝原寛斎(黒田藩 祐筆役)
五男

名:篤信
字:子誠
号:柔斎、損軒、益軒
通称:助三郎、久兵衛

官位:贈正四位(1911年(皇紀2571)明治44年6月1日)

出身:筑前国(現在の福岡県)

 貝原益軒(かいばら えきけん)は、江戸時代中期の本草学者(薬学者)、儒学者、博物学者

 筑前国福岡藩士の息子として生まれ、18歳から生涯ほとんど福岡藩藩主 黒田家に仕えた

 教育・医学・本草学・農学・天文学・地理学・教育・経済・民俗・歴史などの各分野でなどで業績を残した

【貝原益軒の歴史・経緯】


【貝原益軒】

 藩費による7年間の京都留学で本草学(中国の薬物学)や朱子学などを学ぶ

 朱子学者 松永尺五木下順庵、博物学者 中村惕斎・向井元升、
 儒医 黒川道祐・山崎闇斎・松下見林、林鵞峰、公卿 伏原賢忠、本草家 稲生若水、同藩の宮崎安貞らと交友を深める

 教育・医学・本草学・農学・天文学・地理学・教育・経済・民俗・歴史などの各分野でなどで業績を残した

 妻 貝原初子(号:貝原東軒)は、和歌や楷書に優れ、貝原益軒と供に遊行し、紀行文などを助けた

 著書は、60部270巻ほど著した

 黒田藩献上書
 <筑前国続風土記> 1703年(皇紀2363)元禄16年献上
 <黒田家譜>


 本草書
 <花譜(かふ)> 1694年(皇紀2354)元禄7年
 <菜譜(さいふ)> 1704年(皇紀2364)宝永元年

 <大和本草(やまとほんぞう)>
 1709年(皇紀2369)宝永6年刊行
 和装本
 中国の「本草綱目」に訓点を付け、自らの経験から実用的観点からの記述を加えた
 本草学史上で開拓的で、日本で最初の最も体系的な著書とされる


 朱子学書3部作
 青年期に陽明学も学び、朱子学に変わる

 <自娯集>
 1712年(皇紀2372)正徳2年

 <慎思録(しんしろく)>
 学問の功は思にありとして、教義・道徳・教育等の意見を著した

 <大疑録(たいぎろく)>
 晩年には、朱子学の観念性「理気二元論」に疑問を抱き「気一元論」を説いた


 和学
 祖先が備前国(岡山県)吉備津神社の神官であったことから、和学修得の必要を説き「神儒平行不相悖論」を唱えた
 儒教敬天思想に基づく人間平等観の思想をもつ


 教育書・道徳書
 <養生訓
 格言「心を平にして気を和にする。これ身を養い徳を養う工夫なり」

 <大和俗訓>
 格言「高きに登るには必ず麓よりし、遠きにゆくには必ず近きよりはじむる理あれば」

 <和俗童子訓 5巻>
 日本最初の体系的教育書といわれる
 教える者は、まず自ら学ぶべきこと、子供の世界と大人とを同列とすべきではない、などの識見を述べている
 これを元に後世の者により「女大学」が著せられている

 <五常訓>
 <家道訓>
 <君子訓>
 <益軒十訓>

 <和漢名数> 1678年(皇紀2338)延宝6年
 <続和漢名数> 1695年(皇紀2355)元禄8年
 算数の重要性が説かれている


 紀行文
 <京城勝覧
 1706年(皇紀2366)宝永3年
 貝原益軒は、藩費による7年間の京都留学や、24回ほど京都に訪問したといわれる
 洛中の名所と、洛外の17日間のモデルコース仕立てで名所が紹介されている
 幕末まで約150年間も販売されていたといわれる

 <西北紀行 2巻
 1713年(皇紀2373)正徳3年
 山城国丹波国・丹後国・若狭国・近江国の紀行文

 <己巳紀行(きしきこう)>
 天橋立などを旅行した記録

 <和州巡覧記>


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