後藤象二郎(ごとうしょうじろう)

生年:1838年(皇紀2498)天保9年3月19日
没年:1897年(皇紀2557)明治30年8月4日
享年:60

父親:土佐藩藩士 後藤正晴
長男

諱:正本(まさもと)、後に元曄(もとはる)
幼名:保弥太、良輔
通称:象二郎
字:日曄、暢谷、雲濤、不倒翁など
雅号:暘谷、雲濤、光海など

正二位勲一等伯爵
公職:農商務大臣、逓信大臣、大阪府知事など

土佐三伯(他に板垣退助・佐々木高行)の一人

出身:土佐藩(高知市)
お墓:青山霊園(東京都港区)

 後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は、幕末維新土佐藩藩士、明治時代には政治家、実業家として活躍する

 土佐藩参政 吉田東洋に影響され、公武合体の急先鋒として活躍する

 明治維新における徳川慶喜大政奉還、自由民権運動末期の大同団結運動に大きな役割を果した

【後藤象二郎の歴史・経緯】

【後藤象二郎】

 <通称「象二郎」>
 土佐藩前藩主の山内容堂から、鶴田塾(小林塾)を開いた義理の叔父 吉田東洋に象れ(かたどれ)と言われたことによるといわれる

 <公武合体>
 朝廷の伝統的権威と、幕府・諸藩を結びつけて日本の政治体制の再編強化をはかろうとした運動
 後藤象二郎は、開国・公武合体を唱えていた吉田東洋の影響を受け、公武合体の急先鋒として活躍する

 <坂本龍馬
 後藤象二郎は、対立思想の勤王党であった坂本龍馬が提案したといわれている「船中八策」に基づき、容堂に大政奉還を進言する
 この後、後藤象二郎の動きにより、脱藩罪に問われていた坂本龍馬が特赦されたといわれる

 <後藤の汗咄し>
 二条城での大政奉還の日、薩摩・土佐藩・芸州・備前・宇和島の五藩の代表が居残って、
徳川慶喜と膝詰め談判となった時、緊張のあまり大汗をかき、
そばで見ていた松平定敬は後藤の緊張した様子を「成る程、額・首筋の流汗は甚だしかりき」と同僚たち述べたという

 <総合的施設「開成館」>
 武市瑞山が率いる土佐勤王党に吉田東洋が暗殺された後、吉田東洋の経済政策を受け継ぎ、
土佐藩前藩主 山内容堂の強力な支援の元に土佐藩の産業を活発にし、
殖産興業や西洋風の科学教育振興のための総合的施設「開成館」を創立した

 <土佐商会>
 物産の販売や対外貿易のための開成館の長崎出張所
 主任には、岩崎弥太郎を登用した

 <明治六年政変>
 西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題である征韓論争に敗れて板垣退助、西郷隆盛らと共に下野することになる
 使節派遣に賛同したのが板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信、大木喬任など
 反対したのが大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、黒田清隆など

 <愛国公党>
 明治六年政変で下野した板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らが結成
 民撰議院設立建白書を政府左院に提出して高知に立志社を設立した

 <自由民権運動>
 板垣退助、後藤象二郎らの民撰議院設立建白書の提出を契機に始まったとされる
 憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げた

 <大同団結運動>
 自由民権運動は、薩長藩閥政府の弾圧によって衰微し、自由党は解党、立憲改進党も休止状態にあったが、
 後藤象二郎は、自由民権運動各派が再結集して帝国議会に議会政治を打ち立てて、
条約改正や地租・財政問題という難題にあたるべきだと唱えた

 <時事新報「後藤伯」>
 福澤諭吉が、後藤象二郎のことを記した社説
 政府の現状を変え諸悪をはらい清める「非常大胆の豪傑・満天下唯一の人物」は後藤伯だけであると、
幕末から維新に至るまでの功績を絶賛した

 <ルイ・ヴィトン>
 日本人としては初期の顧客だといわれる
 立憲政治視察のため板垣退助と渡欧したときに、ルイ・ヴィトン本店で、幼馴染の板垣退助のために鞄を購入
 当時の顧客名簿に名前が記載されている
 後藤象二郎が購入して、板垣退助が愛用したルイ・ヴィトンの鞄は、高知市立自由民権記念館に現存している

 <旧宅跡>
 現在テレビ長崎の社屋となっており、脇に後藤象二郎邸跡を示す石碑が建っている


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