源実朝(みなもとのさねとも)(Sanetomo Minamoto)

鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍・歌人

生年:1192年(皇紀1852)建久3年8月9日巳の刻
没年:1219年(皇紀1879)建保7年1月27日
享年:28

父親:源頼朝
次男
母親:正妻 北条政子
乳母:阿波局(北条政子の妹)
妻:本覚尼(ほんがくに)

幼名:千幡(せんまん)

鎌倉幕府第3代征夷大将軍
在職期間:1203年(皇紀1863)建仁3年9月7日−1219年(皇紀1879)建保7年1月27日

官位:右大臣

別称:鎌倉右大臣(小倉百人一首

 源実朝(みなもとのさねとも)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍・歌人

 12歳で将軍となるが、実権は北条氏や御家人らにより抑えられ、
 京風の文化と生活とを享受することに傾注し、高い官位を得ることを望んだ

 後鳥羽上皇が好んでいた蹴鞠と和歌を好み
 92首が勅撰和歌集に入集され、小倉百人一首にも選ばれている

【源実朝の歴史・経緯】

【源実朝】

 源実朝は、12歳で鎌倉幕府第3代征夷大将軍となるが、
 北条氏や御家人らにより、政治においては期待できないと分かり、
 京風の文化と生活とを享受することに傾注し、高い官位を得ることを望んだ

 後鳥羽上皇の寵愛する西御方の姉妹で、坊門家の権大納言 藤原信清の娘を妻にする
 後鳥羽上皇が熱中していた蹴鞠と和歌も好んだ
 詠んだ和歌30首を藤原定家に送って指導を受ける
 「万葉集」「古今和歌集」など古来の和歌を研究して独自の歌風を大成した

 92首が勅撰和歌集に入集されている


 <小倉百人一首第93番>
 「世の中は常にもがもな渚(なぎさ)漕ぐ海人(あま)の小舟の綱手(つなで)かなしも」
 鎌倉右大臣とされている

 <新勅撰和歌集
 25首が入集されている

 <家集「金槐和歌集(きんかいわかしゅう)」>
 源実朝の死後にまとめられた
 全3巻に、約700首の詠が収められている

 <辞世の和歌>
 「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」
 庭の梅を見て詠んだといわれる
 「禁忌の和歌」と評される

【源実朝ゆかりの地】

 <六孫王神社
 源実朝の妻 本覚尼(ほんがくに)が、暗殺された夫を弔うために、
六孫王神社の北隣に遍照心院(大通寺)を建立し、六孫王神社は、その鎮守社として再建された


 <児水不動明王の「児の水(ちごのみず)」>
 本覚尼が、暗殺された夫 源実朝を弔うために建立した遍照心院(大通寺)の門前にあったので「尼寺の水」とも称される
 眼病に霊験があるといわれる


 <鹿王院
 舎利殿(駄都殿)の宝塔の中には、源実朝により、中国 宋の都臨安(現杭州)の能仁寺から鎌倉に伝来した釈迦の歯である
仏牙舎利(ぶつげしゃり)が納められている
 10月15日の開山忌(舎利会)
 この日だけ、源実朝が宋から得たという中国伝来の仏舎牙利が公開される


 <小倉百人一首文芸苑 野々宮地区
 西側の手前に歌碑が建てられている


 <源実朝歌碑>
 鴨川(左京区下堤町)に建てられている
 「世の中は つねにもがもな なぎさこぐ あまの小舟の 綱手かなしも」(小倉百人一首第93番)


 <寿福寺の墓所>
 胴体のお墓
 寿福寺境内に掘られたやぐらの内に石層塔が設けられている
 実朝の墓の隣には、母親 北条政子のお墓がある
 寿福寺は、源義朝邸宅跡に建てられた寺院


 <金剛寺の御首塚(みしるしづか)>
 首が葬られた塚
 公暁の追っ手の武常晴が大聖山金剛寺(神奈川県秦野市)(実朝が再興した寺)の五輪塔に葬ったといわれる


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