寒天発祥の地(かんてんはっしょうのち)

所在地:京都市伏見区御駕籠町(京都市立伏見中学校正門脇)   名所地図情報名所

 寒天発祥の地は、 江戸時代前期に、寒天の製法を見つけた伏見の旅館跡

 京都市立伏見中学校の正門横に、石碑・駒札が立てられている

【寒天の歴史・経緯】

【寒天発祥の地】

 <「寒天発祥の地 伏見區御駕籠町」の石碑
 伏見区御駕籠町(おかごちょう)の京都市立伏見中学校正門脇に建てられている


 <寒天の発見>
 伏見の旅館 美濃屋に、参勤交代のために薩摩藩藩主が宿泊
 天草(てんぐ)を煮て作った薩摩藩の「心太料理(ところてんりょうり)」の食べ残しを外に捨てた
 翌朝、冬場の寒さで凍結
 それが、日中の気温で溶けて低温乾燥し、鬆(す)の入った乾物になったといわれる
 これをヒントに、美濃屋の主人 太郎左衛門が、寒天を作りだしたといわれる

 現代のフリーズドライ製法(凍結乾燥・冷凍乾燥製法)である


 <伏見寒天>
 水に戻して食べると海藻臭もなく透明で見た目もよく
 「瓊脂の干物(ところてんのひもの)」「凍瓊脂(こおりところてん)」として売り出し評判となる

【寒天】

 <心太(ところてん)>
 寒天のもとになったもの
 奈良時代には、食用にされていた
 平安時代には、「こるもは」「こころふと」などと記されている

 原料になる海藻の紅藻類である天草(てんぐさ)などを煮て溶かし
その煮汁を濾して型に流し入れ、冷やし固めた凝固物


 <天然寒天>
 テングサ科の天草などの原藻を日光にさらして乾燥・漂白する
 洗浄して一晩、水につけて、あく抜きをする
 70から80度の温水で煮溶かすと熱水抽出液になる
 一晩、釜で蒸し置きし、翌朝、濾過する
 粘質液を濾過し、木箱に流し入れ、固めると心太になる
 冬季に木箱を戸外に並べ、1週間程度、寒気(マイナス5度からマイナス10度)により自然凍結させる
 5度から10度の低温での日光の下で自然解凍・乾燥の工程を繰り返す
 心太は、凍結により寒天質と氷の結晶に分かれ、解凍時に寒天質と水が次第に分離し寒天ができあがる


 <化学寒天>
 オゴノリ科の紅藻オゴノリなど海藻を水酸化ナトリウム、塩化カルシウムで処理し、多糖を凝固可能な状態にしている

 料理、製菓原料、医薬品、培養基などに使われている


 <食品>
 低エネルギー食品
 主成分は、食物繊維で80%ほどになる

 <冬至の七種
 寒天は、二十四節気の一つである冬至に食べて、無病息災を祈る

【その他】

 <寒天の里>
 摂津国嶋上郡原村城山(現在の大阪府高槻市塚脇・東城山町付近)
 江戸時代中期
 宮田半平が、伏見寒天の製法を習い、心太の塊を細く麺状にした「細寒天」を考案し、凍結・乾燥過程を短縮
 郷里で大規模な製造を始めた

 冬季の寒冷、天草を煮溶かすのに必要な薪や炭の確保、原料の入手・製品出荷に必要な淀川の水運立地があり
寒天製造に適していた地だった


 <練り羊羹>
 1461年(皇紀2121)寛正2年
 山城国舟戸の庄(現在の伏見区郊外)の船着き場付近で、饅頭屋店「鶴屋」を創業(現在の駿河屋)
 1658年(皇紀2318)万治元年
 6代目が、当時発見されて間もない寒天を原料に用いて、日持ちの良い煉羊羹を製造する
 寒天を煮溶かし、砂糖・小豆などの漉し餡を加え練りながら煮詰め、槽に流し入れて固めた
 旧来の「蒸す」から、寒天を用いた「炊き上げる」製法に変え、茶菓子として重宝された


 <亀岡の寒天製造用具(登録有形民俗文化財)>
 2012年(皇紀2672)平成24年3月8日の登録
 亀岡市古世町中内坪
 江戸時代後期以来行われてきた寒天製造の様相を示す用具類
 フネ、カイコシ、テンヅツ、マンガなど
 作業は、乾燥したテングサをもどし、砂や貝殻を洗い落とすサラシバでの作業、
洗ったテングサを大釜で煮て煮汁を絞りトコロテンを作る寒天小屋での作業、
トコロテンをテンヅツに入れて棚に広げた簀の上に突き出して凍結と乾燥を繰り返す棚場での仕上げ作業に分けられる


【京都検定 第19回2級】

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