薩摩藩(さつまはん)(Satsuma Han) 京都通メンバ
外様藩
藩庁:鹿児島城(鶴丸城)
所在地:鹿児島市城山町   名所地図情報名所

藩主:島津家

表高:77万石(享保内倹)

 薩摩藩(さつまはん)は、薩摩国・大隅国・日向国諸県郡の大部分(現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部)を領有した外様藩

 琉球王国(現在の沖縄県)が服属した

 鎌倉時代の頃より薩摩を支配してきた島津家を藩主とした

 表高は77万石、琉球を含めると最高石高は約90万石で、加賀藩(現在の石川県・富山県)に次ぐ大藩だった

 京都には、現在も神仏習合の社寺や慣習が多く残っているが、
 都から遠く、古くからの都の文化を理解できない薩摩藩(鹿児島県)・長州藩(山口県)・土佐藩(高知県)らの者たちにより
神仏分離 廃仏毀釈が推進され、仏教だけでなく、神道・修験道・陰陽道なども被害を受ける
 この悪策により、千年以上の歴史ある多くの貴重な文化財・建造物・日本特有の文化などが失われることとなった

【薩摩藩の歴史・経緯】


【薩摩藩】

 <鶴丸城>
 薩摩藩庁
 島津家第18代当主 初代藩主 島津家久により、現在の鹿児島市の城山の麓に築城される
 背後の山城と、麓の居館からなり、天守閣や重層櫓のない質素なものだった
 藩士は、城下町に集められなかった


 <内検>
 薩摩藩は、独自に検地を行っていた

 文禄検地:56万9千石余 文禄年間(1592年~1596年)石田三成奉行により行われた検地
 慶長内検:73万2千石余 慶長年間(1596年~1615年)
 寛永16年:69万9千石余 1639年(皇紀2299)寛永16年
 万治内検:74万7千石余 万治年間(1658年~1661年)
 享保内倹:86万7千石余 享保年間(1716年~1736年)琉球分9万4千石余を除くと77万石となる
 文政9年:89万9千石余 1826年(皇紀2486)文政9年

 全国2位、3位となる大藩だった

 藩内の多くの土壌は水持ちが悪く、稲作には適さないシラス台地であったため
表高は77万石でも実質は35万石ほどの収益しかなかった


 <外城制・郷士制(ごうしせい)>
 武士を鹿児島城下に強制移住させず、領内に分散した外城(とじょう)と称される拠点に居住させた
 後に「郷(ごう)」と称される、約100の軍事・行政支配の単位となる
 郷ごとに、身分差、家格差を越えて武術や学問が磨かれた
 幕末維新には、郷単位に部隊編成が行われた

 多くの郷士(ごうし)を抱えることになり、武士・足軽が人口の37%となる(全国平均は約6%といわれる)


 <門割制(かどわりせい)>
 農民を数戸ごとに「門(かど)」と称する農民共同体に分け、門ごとに土地を所有させ、
 耕地をほぼ均等に分配して耕作させた


 <家臣団の家格>
 1711年(皇紀2371)正徳元年までに整備され、10の家格に分かれていた

 家老与:家老を出すことができる上士層
  ・御一門(4家)私領主とされる
  ・一所持(21家) 私領主とされる
  ・一所持格(約20家)
  ・寄合(寄合、寄合並をあわせ約60家)
  ・寄合並 一代限り

 城下士
  ・無格(2家)
  ・小番(約760家)
  ・新番(約24家)
  ・御小姓与(約3000家)

 准士分
  ・与力(赦免士・座附士)

【ゆかりの地】

 <御香宮神社
 鳥羽・伏見の戦いにおいて、薩摩藩の本陣屯所にもなり、石碑が残されている

 <城南宮
 薩摩藩が、城南宮の参道に大砲を並べ、城南宮西側の小枝橋付近を強行突破しようとした旧幕府軍に発砲したことで、
鳥羽・伏見の戦いの勃発の地とされる



 <薩摩藩邸跡
 幕末維新相国寺南の二本松に新たに造られた二本松藩邸の跡

 薩摩藩邸は、本邸が錦小路東洞院の「錦小路藩邸」、伏見下板橋通に「伏見藩邸」、「二本松藩邸」との3ヶ所と、
等持院の近くの小松原薩摩藩調練場の一角に勤番屋敷があった

 二本松藩邸は、現在、同志社大学の一部となっている


 <小松原・薩摩藩調練場
 等持院平野神社の間の平野にあった薩摩藩藩士の訓練場跡
 等持院近くの勤番屋敷の東にあったといわれる

 <小松帯刀寓居跡
 幕末維新の薩摩藩 家老 小松帯刀が、近衛家別邸 御花畑屋敷跡を住まいとしていた屋敷跡
 小松帯刀の屋敷で、長州藩と薩摩藩との間で薩長同盟が締結された

 <薩長同盟所縁之地
 長州藩と薩摩藩との間で薩長同盟が締結された小松帯刀寓居跡付近に石碑が立てられている

 <大久保利通旧邸跡
 薩摩藩藩士 大久保利通が、京都に滞在したときの邸宅跡
 薩長同盟を結んだ密談のときに用いられた近衛家別邸 御花畑屋敷跡茶室「有待庵」が、
大久保利通により、邸宅に移設され、その後も、国事の密談に使われたといわれる

 <對龍山荘
 薩摩藩出身の技術系官僚でもある実業家 伊集院兼常が、南禅寺境内の塔頭の跡地を所有し屋敷を建築した山荘


 <寺田屋
 幕末維新に、薩摩藩藩士の定宿になり、藩士たちのたまり場にもなっていた
 過激な尊皇攘夷活動を続けていた薩摩藩藩士 有馬新七たちが、同じ薩摩藩藩士たちから粛清を受けた寺田屋事件が起きた


 <大黒寺
 宝暦治水の責任を取って自害した薩摩藩家老 平田靱負のお墓がある

 <林光院
 相国寺塔頭
 墓地には、蛤御門の変(禁門の変)鳥羽・伏見の戦いで戦死した72名の薩摩藩藩士が合葬されている

 <即宗院
 鳥羽・伏見の戦いや戊辰戦争で戦死した薩摩藩藩士524名の氏名が刻まれている「薩摩藩士東征戦亡の碑」がある
 西郷隆盛が、半年滞在して斎戒沐浴(身を清めて)し、自ら工事を監督し、筆をとって銘文をつくり建立した


 <養源院
 鳥羽・伏見の戦い、戊辰の役で、薩摩藩にも多くの負傷者が出たため、養源院に薩摩病院が設けられた

 <同志社大学
 山本覚馬が所有していた薩摩藩邸跡を、大学の用地を探していた新島襄に売り渡された


 <男爵前田正名君記念碑
 薩摩藩藩士 前田正名は、明治政府の殖産興業政策を立案し実践した中心人物
 知恩院の築地塀の外、神宮道に面して記念碑が立っている

【ゆかりの人物】

 <歴代藩主>
 初代 島津家久
 2代 島津光久
 3代 島津綱貴
 4代 島津吉貴
 5代 島津継豊
 6代 島津宗信
 7代 島津重年
 8代 島津重豪
 9代 島津斉宣
 10代 島津斉興
 11代 島津斉彬
 12代 島津忠義

 国父 島津久光  12代藩主 島津忠義の実父


 <幕末維新
  小松帯刀
  西郷隆盛
  大久保利通
  黒田清隆
  松方正義
  五代友厚
  森有礼
  西郷吉之助
  西郷従道
 など新政府の中軸となった有力な人材を多数輩出した

 尊皇攘夷派
  有馬新七

【その他】

 <京都守護職
 薩摩藩藩主の父親 島津久光が主導した文久の改革の一環として京都守護職、政事総裁職などが設けられる
 幕府の権威低下に伴い、京都には諸国から集まってきた尊王攘夷派の過激志士たちによる天誅(要人暗殺)などを取り締まった

 <八月十八日の政変
 幕末維新、薩摩藩・会津藩などの公武合体派が、
 尊皇攘夷派の長州藩や過激派公家などを京都の政治の中枢から追放した宮中クーデタ


 <蛤御門の変(禁門の変)
 幕末維新長州藩の強硬派らが挙兵、蛤御門付近で、京都御所を守る薩摩藩、会津藩など幕府軍と激戦になる


 <寺田屋事件
 幕末維新、薩摩藩尊皇攘夷派の有馬新七たちが、同じ薩摩藩の藩主の父親 島津久光が差し向けた藩士たちによって粛清された


 <王政復古の大号令>
 討幕派の薩摩藩 大久保利通や公家の岩倉具視らの働きで、京都御所御学問所において、
明治天皇臨席の元、天皇を中心とする明治政府樹立の宣言がされ、前将軍 徳川慶喜に対し辞官納地などが命ぜられる

 <鳥羽・伏見の戦い
 薩摩藩・長州藩土佐藩を中心とする新政府軍と、新選組会津藩を中心とする朝敵・反政府軍となった旧幕府軍との戦い
 薩摩藩が、城南宮の参道に大砲を並べ、城南宮西側の小枝橋付近を強行突破しようとした旧幕府軍に発砲したことで勃発する



【京都検定 第7回3級】

【京都検定 第9回3級】

【京都検定 第11回3級】

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【京都検定 第4回2級】

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