頼政塚(よりまさづか)(YorimasaTsuka)

所在地:亀岡市西つつじケ丘大山台   ちず丸地図情報

 頼政塚(よりまさづか)は、亀岡市の市街地東部の西つつじヶ丘の小高い丘の上にある、平安時代末期の武将 源頼政の首塚

 亀岡市立つつじヶ丘小学校が隣接している丘陵上にあり、亀岡市市街が一望できる

 源頼政は、鵺退治の伝説などがある武将で、以仁王の平家打倒の令旨に最初に呼応して兵を挙げた

 宇治川の合戦で追い込まれ平等院で自刃し、家臣により遺骸が領地に持ち帰えられ、この地に葬られたといわれる

【頼政塚の歴史・経緯】

 平安時代末期
 源頼政は、兵庫県川西市周辺の摂津多田庄を本拠とする源満仲の長男

 大江山の鬼退治の伝承がある源頼光の子孫

 鵺退治の伝説
 源頼政は、弓の名手で、内裏に夜な夜な現れる鵺に悩まされた近衛天皇の命により、弓矢で鵺を退治して、
 その恩賞として丹波に領地を賜る
 弓矢の功績で得たことから「矢代庄(矢田庄)」と称される

 1180年(皇紀1840)治承4年4月
 源頼政は、後白河天皇の第三皇子 以仁王の平家打倒の令旨に、最初に呼応して兵を挙げる

 稗田野町の神蔵寺の僧兵も呼応して参戦するが、奈良へ敗走する途中の宇治川の合戦で追い込まれ、平等院で自刃する
 その亡骸を、家臣の猪早太(いのはやた)が領地であった矢代荘に持ち帰り、この地に葬ったといわれる

 江戸時代の古文書によると
 近辺の僧侶が、この塚を掘り起こしてみたところ、石棺があり、供養して埋め戻したと記されている

 1779年(皇紀2439)安永8年
 源頼政の末裔で、亀岡市稗田野町の豪族 松井宗安が、源頼政の供養・顕彰のため石碑を建立する

 亀山藩の家老 松平敏(亀山藩藩士 松平格房の養嗣子)の撰文による「従三位源公之墓」と刻まれている

 近年、古墳の丘陵を削り宅地に造成されたが、頼政塚の部分だけは残されている



【頼政塚】

 山陰道国道9号)「頼政塚」の交差点からつつじヶ丘小学校に隣接している丘陵上にある

 丘陵から、亀岡市市街が一望できる

 この丘陵は、飛鳥時代の古墳といわれる

 源頼政の領地の中で丹波矢田郷が、戦死した宇治から最も近かったため、ここに埋葬されたといわれる


 <墓石>
 亀山藩の家老 松平敏(亀山藩藩士 松平格房の養嗣子)の撰文による「従三位源公之墓」と刻まれている
 背面・側面には、石碑建立に至った由来が刻まれている


 <大地主大神>
 丘陵頂上にあがる途中に祀られている


 <石碑「霊体法身清浄菩薩」>
 周囲に、多くさんの石碑が立てられている


【その他】

 <源頼政の子孫>
 鎌倉時代には、この周辺に、源頼政の子孫の太田氏、松井氏が近くに住んでいた

 源頼政の石碑を建てた松井氏は、鎌倉上杉氏の家臣 太田氏の末裔
 太田氏は、源広綱を祖としている

 源頼政の末子 源広綱は、源頼政の嫡男 源仲綱の養子
 以仁王挙兵のとき、源広綱は、源頼政の知行国の伊豆におり、挙兵した源頼朝に仕え、平氏追討軍に加わる
 1190年(皇紀1850)文治6年、源頼朝の上洛のときに、突然 僧となって上醍醐に住む

 源広綱は、太田氏の祖となり、その子孫は繁栄し、室町時代には江戸城を築城した太田道灌(持資)を出す
 江戸時代の子孫が、「鵺池碑」や平等院の「扇の芝の歌碑」、「頼政塚」を建てた


 <邪気守護>
 近衛天皇を悩ました鵺を退治した武将の首塚として、
京都市から老ノ坂峠を越えて丹波国亀岡市)の入口付近にあたり、市街が一望できる丘陵の上にあり、
邪気の侵入を防いでいるといわれる

 この塚に無礼なことをすると祟りがあるといわれている

 近年、古墳の丘陵を削り宅地に造成されたが、頼政塚の部分だけは残されている


 <矢の根地蔵>
 亀岡市横町
 源頼政の守り本尊の「矢の根地蔵」が、横町集会所にある古世地蔵堂に祀られている

【頼政塚へのアクセス】

 京阪京都交通バス 西つつじヶ丘バス停より徒歩約3分、頼政塚バス停より徒歩約15分

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