石川丈山(いしかわじょうざん)(Jyouzan Ishikawa)

江戸時代前期の武士・漢詩人

生年:1583年(皇紀2243)天正11年
没年:1672年(皇紀2332)寛文12年5月23日
享年:90

幼名:重之、後に凹
通称:三彌、後に嘉右衛門
字:丈山
号:丈山、六六山人、四明山人、凹凸か、詩仙堂、大拙、烏麟、山木、山村、藪里、東溪、三足など

出身:三河国泉郷(愛知県)

 石川丈山(いしかわじょうざん)は、江戸時代前期の武士・漢詩人

 徳川家康に仕えたが、大坂夏の陣の後に武士を辞め、詩仙堂を創建し一生の棲み家とした

【石川丈山の経緯】

【石川丈山ゆかりの地】

 <詩仙堂
 一生の棲み家として建立し、隠棲生活を送った
 詩仙の間
 日本の三十六歌仙にならい、林羅山の意見を求めながら、中国の漢晋唐宋の各時代から詩人を36人を選び、
狩野探幽・狩野尚信に36人の肖像を描かせ、詩仙の間の四方の壁に掲げた
 これが「詩仙堂」の名前の由来となる
 石川丈山自らも各詩人の歌を墨書きして、その額を掲げた

 添水(そうず)
 「山田の僧都(そうず)」は、「鹿おどし」と称される大きな音が出る仕掛けにより、鹿や猪の進入を防ぐためのもの
 石川丈山が考案したといわれ、静寂な庭のアクセントになっており石川丈山好み

 <酬恩庵
 酬恩庵庭園(全体が国の名勝
 方丈庭園は、三面よりなる枯山水庭園
 石川丈山・松花堂昭乗・佐川田喜六の合作といわれる

 <蓮華寺
 本堂に、石川丈山の筆による寺額が掲げられている
 「鶴亀の庭園」は、石川丈山や、狩野探幽が協力して作庭したといわれる
 石川丈山の篆額(てんがく)、木下順庵の撰文の「今枝重直の碑」がある

 <渉成園
 東本願寺の飛地境内で、「枳穀邸」とも称される
 本願寺第13代 宣如上人の願いによって作庭する

 <八大神社
 社頭横額は、石川丈山の筆

 <黒田家
 初代黒田正玄と親交があった  のれんは、石川丈山の筆で「大津 茶ひしやく屋 正玄」と記されている

【その他】

 <漢詩>
 師の藤原せいかに高い評価を受ける
 閑適の詩が多いといわれる
 七言絶句「富士山」は、詩吟初心者の練習によく用いられる
   「仙客来り遊ぶ雲外の嶺 神龍栖み老ゆ洞中の淵 雪は丸素の如く煙は柄の如し 白扇倒にかかる東海の天」

 <詩集「覆醤集(ふしょうしゅう)」>
 上中下3巻
 京都所司代 板倉重宗が、すぐれた詩が消えて行くのを危惧し、嫌がる石川丈山を説きふせて編纂させたといわれる
 この中に、七言絶句「富士山」も含まれている

 <書>
 特に隷書を得意とする
 林羅山は「このような隷書の名手は本邦初めてである」と評価している
 54歳の時、朝鮮の使者と筆談を交わしており、「日東の李杜なり」と賞賛されている

 <茶の湯
 精通しており、煎茶道の元祖であったともいわれる

 <「六忽銘」>
 63歳の時、詩仙堂での日常生活の6つの規律としてを作る
 板に彫って台所に掲げていたといわれる
  火を粗末に取り扱うな
  盗賊を防ぐことを忘れるな
  朝早く起きることをいとうな
  粗食をいとうな
  倹約と勤勉を変えてはならぬ
  掃除をおこたるな

 <鹿威(ししおどし)>
 「僧都(そうず)」「添水」とも称される
 石川丈山が考案したといわれる


【京都検定 第1回3級】

15.徳川家康の側近であった石川丈山が、隠居所として建てた草庵に始まる寺院はどこか?

【京都検定 第3回3級】

【京都検定 第6回3級】

【京都検定 第7回3級】

【京都検定 第6回2級】

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【京都検定 第2回1級】

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【京都検定 第23回1級】

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