新島襄(にいじま じょう)は、明治時代前期の宗教家、教育者
 同志社英学校(後の同志社大学)を創立し、明治六大教育家の一人とされる
 <新島襄の志>
 日本において「自由」と「良心」に立つ人を養成するために、キリスト教を徳育の基本として人格を陶冶する教育機関をめざし、
キリスト教主義に基づき、自治自立の精神を涵養し、国際感覚豊かな人物を育成することを教育の理念とする
 同志社とは、「志を同じくする者が創る結社」を意味する
 一人一人の個性と人格が十分に尊重されることが、大事だと考え、生徒一人ひとりの人格を尊重し、
 遺言においても、「学生を丁重に対応すること」を教職員に望まれたといわれる
 <妻 八重>
 互いに尊重し合い、夫婦仲がとても良かったといわれる
 京都府知事 槇村正直が、女学校の補助金を増やすよう度々直訴に訪れてきていた山本八重(京都府顧問 山本覚馬の妹)を
紹介したといわれる
 後日、山本覚馬の家で、偶然、井戸に腰をかけ裁縫をしている八重を見て、その危なげな姿に心引かれたといわれる
 <大隈重信>
 深い親交があったといわれる
 現在も、同志社大学と早稲田大学の間で学生交流(国内留学)制度がある
 <新島襄旧邸(京都市指定文化財)>
 上京区寺町通丸太町上ル松蔭町
 設計は、新島襄自身によるもの
 <薩摩藩邸跡>
 山本覚馬から、同志社大学の用地を探していた新島襄に、5,800坪の土地を550ドルで譲り渡されたといわれる
 <熊野若王子神社>
 裏山の若王子山に、新島襄のお墓がある
 <若王子山>
 新島襄と妻 八重が葬られている「同志社墓地」がある