地図情報
西陣(にしじん)は、京都市街地の北西部、手織ミュージアム織成舘(浄福寺通上立売)付近を中心にして、
およそ半径500m範囲の地区
東は堀川通(広くは新町通)、西は七本松通(広くは西大路通)、北は鞍馬口通(広くは北大路通)、
南は一条通(広くは丸太町通)で囲まれる一帯の総称
応仁の乱において、西軍総大将である山名宗全が本陣をおいた邸宅が「西陣」と称されたことに由来する
行政的な地名に「西陣」が付く地名はない
京都市の「西陣を中心とした地域活性化ビジョン」でも西陣の範囲をあえて定義されていない
西陣には、西陣織など絹織物産業が集中している
西陣の機業は、織元を中心に、工程ごとに細かく業者が分かれる分業制がとられてきており、
広義の西陣エリアには、西陣織関連業者が多くある
行政的な地名に「西陣」が付く地名はなく、京都市もあえて西陣の定義をしていない
<応仁の乱西軍の陣「西陣」>
西軍総大将である山名宗全の邸宅
現在の堀川通を上立売通から下ったところにある山名町
現在の西陣の範囲の東端中ほどにある
<江戸時代初期>
「西陣組」と称されていた町組があった
概ね、西限が現在の七本松通、南限が一条通、東限が小川通、北限が北区との区境であった
ほぼ現在の西陣の範囲の東が小川通まで広がった範囲
<江戸時代中期>
京都町奉行所の勤方の手引書「京都御役所向大概覚書(1717年(皇紀2377)享保2年頃)」によると
西陣の範囲を「東ハ堀川を限り、西ハ北野七本松を限り、
北ハ大徳寺今宮旅所限り、南ハ一条限り、又ハ中立売通 町数百六拾八町」とされている
ほぼ現在の西陣と称される範囲と同じ範囲
<西陣学区>
京都市の学区で、西陣小学校の通学区域、地域自治の区域
東限が堀川通、西限が浄福寺通、北限が寺之内通、南限が五辻通
現在の西陣の範囲を南北、西側を狭めた範囲
<現在>
江戸時代中期頃からの伝統的な範囲が「西陣」と称される
商業的には、西陣関連業者がある広い範囲で称される場合もある
北端:鞍馬口通(広くは北大路通)あたり
南端:一条通(広くは丸太町通)あたり
東端:堀川通(広くは新町通)あたり
西端:七本松通(広くは西大路通)あたり
<西陣碑(にしじんひ)>
京都市考古資料館前と西陣織会館前の2ヵ所に、西陣の地の由来を示した石碑が立てられている
<京都市考古資料館前西陣碑>
1928年(皇紀2588)昭和3年
京都三宅安兵衛遺志碑として、京都市考古資料館の前に、西陣碑が建立される
<西陣織会館前>
1976年(皇紀2636)昭和51年7月
京都市考古資料館前の京都三宅安兵衛遺志碑の西陣碑が風化が激しくなってきたため
西陣クラブにより、西陣織会館が竣工したことを機に、復元されて西陣織会館前に建立される
<織屋造の京町家>
奥に機織機械を数台おく形式の京町家
<美観地区>
国の景観法第61条で規定される「景観地区」の一地域
西陣美観地区の広さは、2種:31ha、3種:315haの346ha
<西陣織会館>
西陣織の歴史や生産工程の紹介、展示・販売、着物ショーなどを行っている
<西陣くらしの美術館 冨田屋>
西陣の暮らしを知る「表屋造」と称される明治時代の典型的な大きな呉服問屋の京町家
<京都三宅安兵衛遺志碑>
大正時代末から昭和時代初期にかけて、
西陣帯地卸商 三宅清治郎が、父親 三宅安兵衛の遺命に基いて、京都府南部を中心に約400の史跡石標を建立された