北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、北野にある「天神さん」「北野さん」とも称される神社
無実の罪で大宰府に流された、右大臣だった菅原道真の怨霊を鎮めるために建立された神社
祭神の菅原道真は、「和魂漢才」の精神をもって学問に励み、
幼少より文才を表し、朝廷の官吏として活躍されたことにちなみ、
江戸時代、寺子屋が普及し、精神的拠りどころとして天満宮の御札、掛軸がお祀りされ、
「学問の神様」として天神信仰が確立し「天神さん」と称され、多くの受験者らの信仰を集めている
北野天満宮より分霊が「天神様」として、全国各地の天満宮や天神社へ勧請(かんじょう)された
菅原道真は、幼少の頃から天才といわれ、
「和魂漢才」の精神をもって大学者・能書家・詩人・政治家として名声を得た
中将殿(ちゅうしょうどの)は、菅原道真の長男
吉祥女(きっしょうじょ)は、菅原道真の夫人
<農耕の神>
雷を司り、農作物に影響を与える雨を降らす天神さまとして信仰される
秋には、ずいき祭が行われる
<至誠の神>
「海ならずたたへる水の底までも清き心は月ぞてらさむ」が詠まれたように、
清く明き誠の心を生涯貫いたといわれる
大宰府でも、天皇から賜った御衣を毎日着衣していたともいわれる
<冤罪を晴らす神>
4月20日の「明祭」では、冤罪が晴れたことを祝される
<学問・和歌・連歌の神>
菅原道真は、5歳で和歌を詠み11歳で漢詩を作り、幼少の頃から天才といわれ、
「和魂漢才」の精神をもって大学者、能書家、詩人、政治家として名声を得た<ことによる
<渡唐天神>
東福寺の開山 円爾弁円が宋から帰朝し、博多の崇福寺の住職をしていたときに、
菅原道真の神霊が現れ禅を問われた
円爾弁円が、「私が入宋して師と仰いだ仏鑑に参禅するように」と答えると、菅原道真は、後日再び現れ、
「このたび宋に飛び一日にして禅の奥義を修得した」と告げられたという
その時の菅原道真が、唐衣をまとい手に一輪の梅の花を持たれていたため「渡唐天神」と称されるようになる
これにより、室町時代には、禅僧の間で、文学神としての信仰が広まる
<芸能の神>
豊臣秀吉が北野大茶湯を催し、現在でも毎年、献茶祭が行われている
出雲阿国が初めて歌舞伎踊を演じたといわれ、北野天満宮境内で舞楽などの催しが多く行われてきている
江戸時代中期には、
北野天満宮境内で、露の五郎兵衛が、辻ばなしを口演していたといわれ、落語発祥の地ともされる
<厄除の神>
2月25日の梅花祭には、男女の大厄を祓うために、
白梅42本・紅梅33本の小枝を挿し玄米を入れた筒状の紙立(こうだて)がお供えされる
<本殿・石の間・拝殿・楽の間 1棟(附 棟札)(国宝)>
<透塀(すきべい)(右・左)2棟(重要文化財)>
<中門(重要文化財)>
<後門(こうもん)(重要文化財)>
<中門(ちゅうもん)(重要文化財)>
<廻廊(かいろう)(右・左)2棟(重要文化財)>
<絵馬所>
<納札所>
<絵馬掛所>
<神楽殿>
<校倉>
<一ノ鳥居>
<楼門>
<東門(重要文化財)>
<北門>
<明月舎>
<宝物殿>
<茶室 松向軒>
<御土居(国の史跡)>
<梅苑>
<太閤井戸>
<月下氷人石(げっかひょうじんせき)>
<露の五郎兵衛碑>
<手向山楓樹>
<北野天満宮御旅所>
<境内末社 伴氏神社>
<末社 宗像社(むなかたしゃ)>
<大杉社>
<御后三柱(ごこうのみはしら)>
<摂社 福部社(ふくべしゃ)>
<摂社 白太夫社(しらだゆうしゃ)>
<摂社 老松社(おいまつしゃ)>
<摂社 火之御子社(ひのみこしゃ)>
<摂社 地主神社(じぬしじんじゃ)>
<末社 猿田彦社(さるたひこしゃ)>
<末社 稲荷神社>
<末社 一之保神社(いちのほじんじゃ)>
<末社 奇御魂神社(くしみたまじんじゃ)>
<末社 野見宿祢神社(のみのすくねじんじゃ)>
<末社 豊国神社(とよくにじんじゃ)>
<末社 一夜松社(いちやまつしゃ)>
<末社 文子社(あやこしゃ)>
<末社 神明社(しんめいしゃ)>
<末社 竈社(かまどしゃ)>
<境内外末社 神輿岡神社(みこしがおかじんじゃ)>
<紙本着色 北野天神縁起(絵巻)8巻(国宝)>
菅原道真の生涯と、菅原道真死後のさまざまな災いが菅原道真の怨霊と信じられて、
天神信仰が生まれるまでの様子が描かれている
類本の多い天神縁起の中でも、ひときわ優れたものとして著名
1219年(皇紀1879)承久元年の作
1954年(皇紀2614)昭和29年3月20日 国宝に指定される
国宝附指定:紙本墨画同縁起下絵 一巻
国宝附指定:梅樹蒔絵箱 一合 性光調進応永三十三年(1426年(皇紀2086)応永33年)の銘がある
<紙本墨画 雲龍図 六曲屏一双(重要文化財)>
桃山時代の海北友松の雲龍図屏風の代表的作品
縦149.4cm×横337.6cm
1921年(皇紀2581)大正10年8月8日 重要文化財に指定される
<紙本墨書 北野西京神人文書(にしのきょうじにんもんじょ) 99通(重要文化財)>
9巻、33幅、2通
西京神人の麹座に与えられた麹の製造・販売の特権にかかわる文書のまとまり
室町幕府などとの関係や、酒屋の市中における商業・経済活動など、具体的に知ることができる数少ない史料群
南北朝時代から江戸時代のもの
2014年(皇紀2674)平成26年8月21日 重要文化財に指定される
<絹本着色 舞楽図(ぶがくず)2幀(重要文化財)>
鎌倉時代の作
1897年(皇紀2557)明治30年12月28日 重要文化財に指定される
<紫紙金字 金光明最勝王経巻(こんこうみょうさいしょうおうきょうまき)第一 1巻(重要文化財)>
永仁二年十一月十五日書写の奥書がある
1294年(皇紀1954)永仁2年
後宇多天皇の宸翰
1916年(皇紀2576)大正5年5月24日 重要文化財に指定される
附指定:宝永七年古筆了音及門弟寄進状 一通
<紙本著色 北野天神縁起(弘安本)3巻(重要文化財)>
1278年(皇紀1938)弘安元年の作
1901年(皇紀2561)明治34年3月27日 重要文化財に指定される
<紙本着色 北野天神縁起 3巻(重要文化財)>
1748年(皇紀2408)寛延元年
土佐光起の筆
1960年(皇紀2620)昭和35年4月17日 重要文化財に指定される
<本著色 北野天神縁起 3巻(重要文化財)>
1503年(皇紀2163)文亀3年
土佐光信の筆といわれる
1902年(皇紀2562)明治35年4月17日 重要文化財に指定される
<板絵金地着色 昌俊弁慶相騎図 1面(重要文化財)>
大きな絵馬
源義経の命を狙った土佐坊昌俊を、武蔵坊弁慶が捕らえて堀川の屋敷へ引っ立てていく場面を描く
桃山時代
長谷川等伯が70歳のときの作
上側の3分の2は8枚、下側の3分の1は9枚の板を左右に並べて作られている
4か所に墨書が残されている
1986年(皇紀2646)昭和61年6月6日 重要文化財に指定される
<板絵金地著色 曳馬図 絵馬1面(京都市指定登録文化財)>
1750年(皇紀2410)寛延3年、渡辺始興の筆
<北野曼荼羅図>
<豊太閤北野大茶湯図>
<木造 鬼神像(きしんぞう)13躯(重要文化財)>
忿怒の相の上半身は裸形の鬼神像群
両手を腹前で組んで棒状の持物を持つもの2体
左手を腰に当てて右手で持物を持つもの3体
その他の手の構え1体
平安時代の作
2006年(皇紀2666)平成18年6月9日 重要文化財に指定される
<刀 1口(重要文化財)>
北野天満天神豊臣秀頼公御造営之時于時の銘がある
慶長十二丁未十一月日信濃守国広造の銘が記されている
1607年(皇紀2267)慶長12年 信濃守国広の作
豊臣秀頼の寄進
1950年(皇紀2610)昭和25年8月29日 重要文化財に指定される
<太刀(銘助守)(すけもり)1口(重要文化財)>
身長70.2cm、反2.0cm
鎬造、二ッ棟、鍛板目、刃文小乱れ、小丁子交じり、足入り
平安時代の助守の作
1950年(皇紀2610)昭和25年8月29日 重要文化財に指定される
附指定:糸巻太刀拵
<太刀(銘恒次)(つねつぐ)1口(重要文化財)>
鎌倉時代の作
1950年(皇紀2610)昭和25年8月29日 重要文化財に指定される
附指定:糸巻太刀拵
<太刀(銘備州長船師光)(びしゅうおさふねもろみつ)1口(重要文化財)>
銘備州長船師光応永九年の銘がある
1402年(皇紀2062)応永9年
備州 長船師光の作
1950年(皇紀2610)昭和25年8月29日 重要文化財に指定される
附指定:糸巻太刀拵
<太刀(銘安綱(鬼切))(やすつな(おにきり))1口(重要文化財)>
平安時代の安綱の作
1950年(皇紀2610)昭和25年8月29日 重要文化財に指定される
<日本書紀写本28冊(重要文化財)>
平安時代から室町時代に写本されたもの
1914年(皇紀2574)大正3年4月17日 重要文化財に指定される
<北野天満宮聖廟法楽和歌(せいびょうほうらくわか)(重要文化財)>
3巻630枚
江戸時代のもの
2024年(皇紀2684)令和6年 重要文化財に指定される
<北野大茶湯高札>
毎月25日に縁日が開かれる
<初天神> 1月25日
<梅花祭>
2月25日
悲嘆のうちに生涯を閉じた菅原道真の霊を「なだめる」という言霊に通じる菜種(菜の花)を、
冠につけた神職たちにより、蒸し米に梅の小枝を挿した梅花御供が神前に供えられる
上七軒の芸妓・舞妓さんらによる野点なども行われる
<祈願絵馬焼納式> 4月19日
<明祭>
4月20日
菅原道真の冤罪が晴れたことが祝される
<雷除大祭>
6月1日、摂社 火之御子社
正式には「火之御子社例祭」
雷除・火難除・五穀豊穣が祈願される
<御誕辰祭(夏越天神)(夏越祓)>
6月25日
菅原道真の生誕日を祝う
夏越祓の茅の輪くぐりが行われ、無病息災が祈願される
楼門に掲げられる茅で作った直径5mの大茅の輪は、京都最大もの
本殿前にも直径約2mの茅の輪が設置される
左回り、右回り、左回りと八の字状にくぐり抜け、穢れ(けがれ)を落とす
<御手洗祭、七夕祭> 7月7日
<例大祭> 8月4日
<ずいき祭>
10日1日〜5日
秋の例祭
ずいき(里芋の茎)で大小2基の神輿の屋根が飾られる
<名月祭(芋名月)>
中秋の日
ずいきや里芋、月見だんごなどを供えて名月を観賞する
<余香祭>
10月29日
菅原道真が、重陽の宴に詠んだ詩に醍醐天皇が感銘を受けられ更衣を賜り、
大宰府に流された菅原道真が、都での栄華を思い「去年の今夜清涼に侍す 恩賜の御衣 余香を拝す」と
「重陽後一日」の詩を詠んだ故事にちなむ祭事
毎年、題が決められ、全国から献詠された和歌を神前で披露される
黄菊、白菊が飾られ、斎主、祭員、奉仕者など全員が冠に小菊をかざして奉仕される
<お茶壷奉献祭>
11月26日
宇治市や伏見区など府内8カ所からお茶が奉納される
<献茶祭(けんちゃさい)>
12月1日
1587年(皇紀2247)天正15年10月1日
豊臣秀吉が開いた「北野大茶湯」に由来するお祭
本殿での神事に続き、
11月26日の「お茶壷奉献祭」で奉納されたお茶により、京都の4家元2宗匠が輪番により、濃茶と薄茶が点てられ神前に奉納される
境内や上七軒の歌舞練場などに茶席が設けられ、絵馬所では和菓子の展覧会なども開かれる
<終い天神> 12月25日
<大祓式> 12月31日
<火之御子社鑚火祭> 12月31日
<おけら参り> 12月31日
<影向松(ようごうのまつ)>
<筋違いの本殿>
<星欠けの三光門>
<大黒天の燈籠>
<唯一の立牛>
<裏の社>
<天狗山>
北野天満宮の神紋は、梅
菅原道真は、白梅をこよなく愛し、大宰府に左遷されるときに、
「東風(こち)吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
と、庭の梅に詠んだといわれる
<飛梅伝説>
大宰府に左遷された菅原道真を慕って、菅原道真の御殿の梅が一夜にして大宰府まで飛んでいったといわれる故事
<梅林>
面積約5000坪の梅林がある
境内を含めて、約50種類、2,000本以上の梅が見られる
<大福梅>
新年の招福息災の祈りを込める祝膳に欠かせない縁起物
元旦の初茶に入れて飲めば、1年間を無病息災で過ごせるといわれる
村上天皇が病気退散の故事に由来する
12月13日の事始めから、12月25日の天神さんの頃まで授与される
<神使>
北野天満宮において、牛は神使(祭神の使者)とされ、多くの牛の像が置かれている
菅原道真の生まれが丑年であり、亡くなられたのも丑の月の丑の日とされる
大宰府へ左遷されるとき、牛車で下っていったといわれ、
途中、多くの刺客から菅原道真を守ったともいわれる
菅原道真が亡くなり、遺骸を運んでいた途中、
安楽寺(現在の太宰府天満宮の地)の門前で牛が座り込んで動かなくなったため、
やむなくその安楽寺に埋葬されたといわれる
<なで牛>
境内に多くの牛の像が置かれている
牛の像の頭をなでると頭がよくなるといわれ、特に受験生に信仰されている
自分の体の悪い部分と、牛のその同じ部分とを交互になでると良くなるともいわれている
<長五郎餅>
漉し餡(こしあん)を薄い餅皮で包んだ京菓子
北野天満宮門前の長五郎本舗で売られる
<粟餅>
北野天満宮の門前茶屋の名物菓子
<俗諺>
「弘法さんが晴れやったら天神さんは雨や」
東寺の弘法さんの市が毎月21日に行われ、北野天満宮の天神市が毎月25日に行われる
その五日間の間に、天候のサイクルにより晴雨が変わることをいい表す
<菅原道真の祟り>
菅原道真が、藤原時平の策略で無実の罪で大宰府に流され、無念のまま死去してから、
京では天変地異が続き「菅原道真の祟り」と噂されるようになった
<落語の発祥の地>
江戸時代中期
貞享・元禄年間(1684年〜1704年)
北野天満宮境内で、露の五郎兵衛が、辻ばなしを口演していたといわれる
境内には顕彰碑が立てられている
<北野上七軒>
東門の門前に形成された花街
上京北野界わい景観整備地区に指定されている
<御前通>
平安京の西大宮大路にあたり、大内裏の西側にあった道幅24mの大きな通り
北野天満宮に通じていることから「御前通」と称されるようになった
以前は、治安を守る役人の居住地域であったことから「左近馬場通」「北野馬場通」とも称されていた
<神仏分離>
1869年(皇紀2529)明治2年
神仏習合の都の文化を理解できない明治政府が強制的に行った悪政
名称が「北野神社」と改称された(現在は戻されている)
境内にあった、天台宗の社僧が奉仕していた松梅院、徳勝院、妙蔵院など40以上の寺院が破棄された
本殿内陣には十一面観音菩薩が祀られており、社僧により読経が行われていた
本殿には、菅原道真が天台座主から譲り受けたものといわれる「菅公御襟懸守護の仏舎利」が
安置されていたが、強制撤去となり、常照皇寺の住職 櫓山が、交渉を続け譲渡を受けた
拝殿の正面に吊るされていた大鰐口が破却される
大日如来が祀られていた多宝塔が破棄される
大日如来像と須弥壇は、浄土宗の親縁寺に引き渡され
現在の須弥壇には、本尊 阿弥陀如来が祀られている
豊臣秀頼が寄進したものともいわれる鐘楼もあったが、大雲院に移設された
本殿の裏、現在の末社 御后三柱が祀られているところには、
影向松に飛来したとされる仏舎利を祀る舎利塔があったが、舎利塔が常照皇寺に移された