応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代、8代将軍 足利義政のときに起こった11年におよぶ史上最大の内乱
京都市街地は焼け野原となり、多くの文化財・伝統文化・生活文化も失われ、京都では、「先の大戦」と称される
8代将軍 足利義政の、実弟 足利義視と、正室 日野富子・息子 足利義尚との足利将軍家の跡継ぎ争いと、
複数の管領家の跡継ぎ争いと覇権争いが要因となる
上御霊神社で最初の戦いが起こる
管領細川勝元が東軍の主謀、四職の山名宗全が西軍の主謀となる
途中で、陣営の寝返り・下剋上が頻繁に起こり戦国大名が生まれ戦国時代に突入していく
<足利将軍家>
8代将軍 足利義政の跡継ぎ問題
足利義視 :義政の実弟 :義政に実子がいない時期に義政の養子となり跡継ぎとされていた :後見人:細川勝元
足利義尚 :直前に生まれた正室 日野富子との実子 :後見人:山名宗全
<管領家(三管領)>
将軍を補佐する家柄
細川家 :当主 細川勝元が掌握
畠山家 :当主争い:畠山政長・畠山義就
斯波家 :当主争い:斯波義敏・斯波義廉
<四職家(ししきけ)>
侍所の長官になれる家柄
山名家 :当主 山名宗全が掌握:次男の山名是豊だけが対抗
赤松家 :山名宗全により滅亡し、その後、足利義政により再興され、山名家と対抗
京極家 :当主争い:京極勝秀の長男 乙童子丸・次男 孫童子丸
一色家 :当主 一色義直が掌握
東軍 | 西軍 | |
主謀 | 細川勝元 | 山名宗全 |
将軍家 | 足利義政の実弟 足利義視 (その後、東軍から西軍へ) | 足利義政の実子 足利義尚 (その後、日野富子がいる東軍へ) |
細川家 | ほぼ全員 | |
畠山家 | 畠山政長 | 畠山義就 |
斯波家 | 斯波義敏 | 斯波義廉 |
山名家 | 山名是豊(宗全の次男) | ほぼ全員 |
赤松家 | ほぼ全員 | 有馬元家(赤松分家) |
京極家 | 京極勝秀 次男 孫童子丸 | 長男 乙童子丸 |
赤松家 | ほぼ全員 |
関係者を | 足利義政が | 細川勝元が | 山名宗全が |
畠山持国(管領) | 政敵 | 後見を得る⇒その後、政敵になる | |
畠山義就(畠山持国の実子) | 細川・山名に対抗して支援する 再上洛後に家督を認める その後、追放する その後、山名の取計いで赦免する | 追放する | 追放する 赦免を取り計らう⇒御霊合戦 |
畠山弥三郎(畠山持国の甥) | 支援する | 支援する | |
畠山政長(畠山弥三郎の弟) | 政長を匿った細川家臣を切腹さす 義就から家督を与える その後、出仕停止⇒御霊合戦 | 支援する | 出仕停止、管領を斯波義廉へ交代 |
斯波義敏(越前・尾張・遠江守護) | 関東派兵を拒否され家督を義寛へ 再上洛後、家督を義廉から戻す | 文正の政変で追放 | 文正の政変で追放 |
斯波義寛(斯波義敏の子) | 家督を義敏から与える | ||
斯波義廉(渋川義鏡の子) | 家督を義寛から与える 義敏の再上洛後、出仕停止にし 家督を義敏へ戻す | 文正の政変後、管領にする | |
赤松満祐(播磨・備前・美作守護) | 6代将軍 足利義教を暗殺 | 討伐し播磨国などを得る | |
赤松則尚(赤松満祐の甥) | 再興を支援 (反対する宗全に退治命令) | 再興を支援 (宗全の退治命令を取り消させる) | 再興に猛反発 (退治命令を受けて引退する) 備前国に追いやり自害さす |
赤松政則(赤松満祐の孫) | 家督相続を許し、政所執事にする | 加賀半国守護として復興さす 文正の政変に連座して失脚 支援して政界に復活さす 東軍に参戦させる | 再興に猛反対 文正の政変に連座して失脚 (政則に攻められ旧領が奪われる) |
足利義視(足利義政の実弟) | 還俗させて将軍職を譲ろうとする | 後見人となる 義政から牙旗を授与され官軍となる 義視は東軍を出て比叡山へ | 比叡山から西軍へ迎える |
足利義尚(足利義政の実子) | 正室 日野富子との子 将軍職を譲り隠居する | 義視が東軍を出た後、擁立する | 日野富子が将軍擁立を依頼 |
<上御霊神社と北野天満宮>
京都の歴史上、最大の災いとなった応仁の乱の発端の地となり、東軍が陣を張った上御霊神社は、
早良親王や井上内親王など、12柱の御霊(強い怨霊)を鎮めるために祀られたところ
西軍が陣を張った西陣には、菅原道真の怨霊を鎮めるために創建された北野天満宮がある
<応仁の乱勃発地>
上御霊神社の森での合戦から、後の応仁の乱に発展し、約11年間も続く日本史上最大の内戦となった
<西陣>
西軍の山名宗全が陣を張った地域を「西陣」と称するようになった