足利義尚(あしかがよしひさ)(Yoshihisa Ashikaga)

室町幕府第9代将軍

生年:1465年(皇紀2125)寛正6年11月23日
没年:1489年(皇紀2149)長享3年3月26日
享年:25

父親:8代将軍 足利義政
次男
母親:正室 日野富子

改名:足利義煕(あしかがよしひろ)

妻:日野勝光の娘

在職:1473年(皇紀2133)文明5年12月19日−1489年(皇紀2149)長享3年3月26日

応仁の乱:直前は後見人 山名宗全に頼る :勃発時に東軍細川勝元に保護される

お墓:相国寺常徳院・大光明寺

 足利義尚(あしかがよしひさ)は、室町時代後期の室町幕府第9代将軍

 8代将軍 足利義政の実子で、足利義政の弟 足利義視と将軍跡継ぎ問題で母親 日野富子らに擁立され応仁の乱の一要因となる

 応仁の乱の最中の、9歳のときに、足利義政から将軍職を譲られる

 応仁の乱の後、幕府の復権を図り、近江守護の六角高頼の討伐のため、近江鉤に長期滞在することになり
 享年25で近江鈎の陣中で病死する

【足利義尚の歴史・経緯】

【足利義尚】

 <緑髪将軍>
 「御容顔いとも美しく、すきのない玉の御姿」と記されるほど、美しい顔立をしていたといわれる


 <政道>
 応仁の乱の直後は、政治改革に意欲を示し、
 政治顧問の一条兼良から、帝王学や治国の書として「樵談治要」「文明一統記」などを授かる


 <歌道
 一条兼良から和歌なども学ぶ

 <新百人一首>
 1483年(皇紀2143)文明15年10月に撰定

 <和歌「撰藻鈔」>
 姉小路基綱や三条西実隆、飛鳥井雅親、宗祇などの歌人を結集して編纂を行うが、途中で死去して完成しなかった

 <多田院廟前詠五十首和歌>
 1484年(皇紀2144)文明16年、摂津国の多田院に奉納した

 <歌集「常徳院殿御集」>

 <辞世の歌>
 「ながらへば人の心も見るべきに露の命ぞはかなかりけり
 もしほ草あまの袖師の裏波にやどすも心あり明の月
 出づる日の余の国までも鏡山と思ひしこともいたづらの身や」

【足利義尚ゆかりの地】

 <等持院
 木像が安置されている


 <肖像画「足利義尚像」>
 束帯姿
 天龍寺の所蔵

 <肖像画「足利義尚像」(重要文化財)>
 狩野正信の作
 1489年(皇紀2149)延徳元年の足利義尚の騎馬武者姿の肖像画
 金宝山地蔵院(名古屋市)の所蔵


 <相国寺常徳院>
 亡くなった直後に葬られた

 <墓所>
 後に大光明寺に改葬された

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