蒲生氏郷(がもううじさと)(Ujisato Gamou)

戦国時代から桃山時代にかけての武将・茶人・キリシタン大名

生年:1556年(皇紀2216)弘治2年
没年:1595年(皇紀2255)文禄4年2月7日
享年:40

父親:蒲生賢秀
三男(嫡男)

名前:鶴千代、賦秀(やすひで)、教秀(のりひで)
洗礼名:レオン

近江日野城主・伊勢松阪城主・陸奥会津藩鶴ヶ城主

利休七哲の一人

出身:近江国蒲生郡日野
墓地:黄梅院

 蒲生氏郷(がもううじさと)は、戦国時代から桃山時代にかけての武将・茶人・キリシタン大名

 近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主となる

 千利休の高弟の7人「利休七哲」の一人で、千利休が自刃した後に、徳川家康とともに千家復興に尽力した

【経緯】

【蒲生氏郷】

 <茶道
 千利休に師事し、利休七哲の筆頭とされていた
 千利休からは「文武二道の御大将にて、日本において一人、二人の御大名」と評されたとされる

 千利休から拝領したといわれる赤楽早船(畠山記念館蔵)
 自作の竹花生(根津美術館蔵)
 自作の茶杓 3点(東京国立博物館、野村美術館、本居宣長記念館各蔵)などがある

 千利休が自害の処分を受けたとき、息子 千少庵を、一年半ほど会津藩で匿い庇護している
 千少庵に鶴ヶ城本丸の大書院の側に数寄屋「麟閣」を作らせ、鶴ヶ城の庭で茶会を開いていたといわれる

 1990年(皇紀2650)平成2年
 「麟閣」が、鶴ヶ城本丸の跡地に再移築された(福島県指定重要文化財)


 <歌道
 三条西実枝から和歌、宗養 里村紹巴から連歌を学ぶ

 会津藩から文禄の役に参陣する途中、近江国武佐で故郷の日野を偲んで、
 「思ひきや 人の行方ぞ定めなき 我が故郷を よそに見んとは」と詠む

 辞世の句
 「かぎりあれば 吹ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風」


 <
 1593年(皇紀2253)文禄2年10月
 宮中において「鵜飼」を演じる


 <キリシタン大名>
 洗礼名:レオン
 イタリア人宣教師を家臣にする
 ローマヘ使節団を送ろうとしたといわれる

【蒲生氏郷ゆかりの地】

 <黄梅院
 大徳寺塔頭
 お墓の発掘により、刀を抱いた形で埋葬されていたことが判明している


 <方広寺
 大仏殿の石組工事で、五条大橋大門角石用の二間四方の石を近江国大津の三井寺の上から切り出して京都まで運んだ
 その石は、諸大名が調達したものの中で最大であったという


【京都検定 第21回1級】

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