千利休(せんのりきゅう)(Senno Rikyuu)

千利休(せんのりきゅう)は、戦国時代安土桃山時代の茶人

出身:和泉国の堺
生年:1522年(皇紀2182)大永2年
没年:1591年(皇紀2251)天正19年2月28日

本名:田中与四郎
居士号:千利休(せんのりきゅう)(正親町天皇から賜る)
法名:宗易(そうえき)

祖父:千阿弥(足利義政同朋衆

お墓:大徳寺塔頭聚光院

「茶聖」とも称せられる

 千利休(せんのりきゅう)は、何も削るものがないところまで無駄を省いて、緊張感を作り出すという「わび茶(草庵の茶)」を
大成した茶人


 武野紹鴎らに茶の湯を学び、織田信長豊臣秀吉に仕えた

 豊臣秀吉の北野大茶会の茶頭として活躍した

【千利休の歴史・経緯】


【わび茶】

 千利休は、「茶禅一味」を唱え、何も削るものがないところまで無駄を省いて緊張感を作り出すという「わび茶(草庵の茶)」を大成した

 「茶禅一味」とは「茶道は禅から起こったものであるから、求めるべきものは禅と同一であるべきである」という意味

 <利休道具>
 唐物など高価な名物を尊ぶことを否定して、楽茶碗や万代屋釜などの装飾性のない利休道具を創造し、
 「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」など、多くの物に千利休の名を残し、
 日本の伝統工芸品にも大きな影響を与えた

 <草庵茶室
 4畳半が最小されていた茶室から、1畳や2畳の茶室を創造した
 躙り口(潜り)や下地窓、土壁、五尺床などが工夫され、
 採光についても、縁側に設けられた2枚引・4枚引きの障子による形にはまった採光から、
茶室を土壁で囲い、そこに窓を開けて必要な場所を必要なだけ照らす自在な採光を工夫した
 設計の自由度を大きくしたことで、数寄屋造や、日本の建築に大きな影響を与えた

 <露地
 茶室への通路を、「茶の湯の空間「「もてなしの空間」とし、
お客として訪れ、お茶を喫して帰路につくまでの全てを充実した時間とする

【千利休のゆかりの茶室

 <茶室 待庵(国宝)
 妙喜庵に建つ
 日本最古の茶室建造物で、千利休の現存する遺構として唯一の茶室
 1582年(皇紀2242)天正10年
 第三世の功叔士紡(こうしゅくしぼう)が茶人であったことから、千利休がよく妙喜庵を訪れていた
 羽柴秀吉(豊臣秀吉)明智光秀を討つためにひいた山崎の地の陣中に、千利休を招いて二畳隅炉の茶室 待庵を作らせた
 その後、解体され妙喜庵に移されたといわれる
 藁すさ(わらすさ)を見せる荒壁仕上げ、抽象画にも似せた窓配置
 入り隅(いりすみ)の柱を隠し、天井まで壁で塗り込めた室床(むろどこ)などによって二畳という狭さを感じさせない茶室
 最初に茶室に窓が付けられたといわれる
 国宝に指定されている三棟の茶室(犬山の如庵、大徳寺密庵)のうちの一つ

 <高台寺傘亭(重要文化財)>
 正式には「安閑窟」
 丸竹の垂木(たるき)を放射状に組まれた化粧屋根裏(けしょうやねうら)が、唐傘に似ていることから「傘亭」と称される
 伏見城の遺構の茶屋で千利休の意匠

 <高台寺時雨亭(重要文化財)>
 珍しい二階建て茶屋で千利休の意匠
 納涼と展望を目的としている
 伏見城の遺構
 傘亭と土間廊下で結ばれている

 <千利休居士聚楽屋敷跡
 晴明神社境内に立つ
 豊臣秀吉が建立した聚楽第に近く、晴明神社の晴明井の水を用いて茶会を催した

 <大徳寺屋敷跡> 大徳寺門前
 <醒ヶ井屋敷跡> 五条堀川辺り
 <大仏屋敷> 東山大仏

【千利休の菩提寺 聚光院

 大徳寺塔頭
 千利休が開祖 笑嶺和尚に参禅し、檀家となり寄進を行い、
 三千家の菩提寺となり、千利休の墓や、三千家武者小路千家表千家裏千家)の歴代の墓所となっている

 <茶室 閑隠席(かんいんせき)(重要文化財)>
 1741年(皇紀2401)寛保元年
 表千家七世 如心斎が、千利休150回忌に創建したもの
 点前座を一段低くし、それにより客座を上段の間のように見せている凝った造り
 千利休好みの三畳台目の茶席

 <百積の庭(国の名勝)>
 方丈前の南庭
 苔庭である枯山水庭園
 千利休の作といわれる
 直線上に庭石を置き、石組みの多いことから「百積(ひゃくせき)の庭」と称される
 明治時代中期頃は、白砂が敷かれていたといわれる

 <千利休墓>
 三千家の歴代墓地が並ぶ中央に位置する宝塔
 高さ約2m
 元は船岡山にあった供養塔を、千利休が生前に気に入り、没後自らの墓標としたといわれる

 <利休忌>
 3月27日、28日に行われる

【その他】

 <高桐院の書院 意北軒(いほくけん)>
 千利休邸からの移築といわれる

 <大徳寺の三門(重要文化財)>
 二層の門
 「金毛閣(きんもうかく)」と称される
 1529年(皇紀2189)享禄2年
 連歌師 宗長(そうちょう)の寄進で、下層のみが竣工する
 1589年(皇紀2249)天正17年
 千利休が、上層を完成させる
 千利休が上層に自分の木像を安置したことから、「門を通る者に自分の下をくぐらせる」と豊臣秀吉の怒りをかい自決を責められた

 <黄梅院の直中庭(じきちゅうてい)>
 千利休の62歳の時の作
 苔一面の枯山水庭園
 豊臣秀吉の希望により、瓢箪型の枯池を手前に配し、加藤清正が持ち帰った朝鮮灯籠が据えられている

 <智積院
 庭園(国の名勝)は、大書院に面し、千利休好み

【千利休の辞世の句】

 千利休が、切腹する前日に作ったといわれる

 「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛」

【千利休の切腹の理由】

 1591年(皇紀2251)天正19年
 豊臣秀吉の突然の勘気に触れて切腹を命じられたことについては、
様々な説がいわれている

 古渓宗陳の勧めで大徳寺の三門「金毛閣」の上層部を増築して寄進した
 そのときに、上層部に千利休の木像を置き、大徳寺に参拝する豊臣秀吉やみんなを千利休の下を通らせたとして
怒りをかったといわれる

 安い茶器類を高額で売り、私腹を肥やした疑いを持たれたといわれる

 天皇陵の石を勝手に持ち出して、手水鉢や庭石などに用いたとされる

 豊臣秀吉が、千利休の娘を側室に望んだが、
千利休が「娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否したためといわれる


【京都検定 第1回3級】

45.室町時代に、村田珠光によって創始された禅の精神を取り入れた草庵の茶を受け継いで「わび茶」を大成したのは誰か

【京都検定 第3回3級】

【京都検定 第4回3級】

【京都検定 第6回3級】

【京都検定 第7回3級】

【京都検定 第10回3級】

【京都検定 第11回3級】

【京都検定 第12回3級】

【京都検定 第13回3級】

【京都検定 第20回3級】

【京都検定 第1回2級】

【京都検定 第3回2級】

【京都検定 第6回2級】

【京都検定 第8回2級】

【京都検定 第9回2級】

【京都検定 第10回2級】

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【京都検定 第3回1級】

【京都検定 第4回1級】

【京都検定 第10回1級】


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