黄梅院(おうばいいん)(OubaiIn)

所在地:京都市北区紫野大徳寺町   卍地図情報卍

臨済宗大本山 大徳寺塔頭

本尊:釈迦如来

開基:春林宗俶禅師(しゅんりんそうしゅくぜんし)

 黄梅院(おうばいいん)は、紫野にある大徳寺塔頭の一つ

 織田信長豊臣秀吉の寄進を受けて改築され、その後、毛利家の菩提寺となる

【黄梅院の歴史・経緯】


【黄梅院の伽藍】

 <本堂(客殿)(重要文化財)>
 方丈様式、方7間、桁行14.8m、梁間12m、一重、入母屋造、杉の木の檜皮葺
 禅宗塔頭の特有の特徴がよくみられる
 室中の間(しつちゅうのま)、檀那の間、衣鉢の間、礼の間、書院の間などがある
 前に広縁、落縁、側背面にも広縁が付き、彫刻が施されている

 室中の間には、仏間でもあり、多くのゆかりの人たちが祀られている
 檀那の間(上間の間)は、住持が、公式訪問してきた大名・役人と対面する部屋だった
 礼の間(下間の間)は、住持が、客人と対面する部屋
 書院の間は、畳の部屋で、机の台があり、住持が、書見・書簡・文筆などをするときに用いた
 衣鉢の間は、修行僧が悟りを開いたときに、証として衣鉢を与えた印可証明伝授のときに用いられた
 眠蔵(みんぞう)は、住持の寝室として用いられた

 1586年(皇紀2246)天正14年
 豊臣秀吉により建立される
 1977年(皇紀2637)昭和52年
 約400年ぶりに解体修理が行われた


 本堂の周囲に4つの庭園がある

 <直中庭(じきちゅうてい)
 本堂の西、書院南庭の池泉回遊式枯山水庭園  書院 自休軒の改装ときの、千利休の62歳の作庭で命名された
 豊臣秀吉の希望により、瓢箪型の枯池が手前に造られ、加藤清正が朝鮮との文禄・慶長の役のときに持ち帰った朝鮮灯籠が据えられている
 鶴石、亀石造られている
 池には伏見城の遺構という石橋が架けられている

 妙心寺塔頭退蔵院の禅僧 如拙が描いた「瓢鯰図(ひょうねんず)」を基にして作庭されたともいわれる

 不動三尊石は、大徳寺1世 徹翁義亨が、延暦寺より持ち帰ったもの
 中央に不動明王、右に制吒迦童子(せいたか-どうじ)、左に矜羯羅童子(こんがらどうじ)が置かれている
 不動三尊石の前に平石の礼拝石がある


 <破頭庭(はとうてい)>
 本堂南の前庭
 「黄梅院」の名前の由来になった日本仏教の源流の地である中国 黄梅県波頭山 東禅寺にちなむ庭
 「破頭」とは、利己の考えを改める、悟りの境地に達することをいう
 正方形の敷地で、東西に直線で引かれた桂石(葛石)を境にして、白砂と苔の2つに分かれている簡潔な枯山水庭園
 手前は、白川砂の波紋(海)が広がっていて、奥に、苔地(陸)がある

 本堂の西端の檀那の間の正面に、右から大小二石と、聴聞石(ちょうもんせき)の立石がある
 二石は、観音菩薩勢至菩薩とか、文殊菩薩普賢菩薩、釈迦の弟子の摩訶迦葉尊者・阿難尊者ともいわれる
 二石の左に、親石の迦葉石がある
 これらの三石で、本堂に安置されている釈迦如来の説法を聞く姿を現わしているともいわれる

 左側(東端)には、釈迦を表したという夏椿(沙羅双樹)が植えられ、その右脇に人を表している石が置かれている
 白椿は、大綱宗彦の乳兄弟だった光格天皇の手植えといわれる

 天正年間(1573年〜1592年)の作庭といわれる


 <作仏庭(さぶつてい)>
 本堂の北裏側にある枯山水庭園
 生々流転(せいせいるてん)が表現されているといわれ、
 北東に組まれた巨石の滝口があり、立石から流れた水が、西と南へ流れる様子を表されている


 <閑坐庭(かんざてい)>
 本堂東の南北に長い中庭
 北の作仏庭につながっている
 白砂の砂紋と、苔地、石のみで構成されている
 小船に見立てた巨石、蓬莱山を表す石が置かれていて、流れは、南の破頭庭へと注いでいる


 <庫裏(重要文化財)>
 一重、切妻造、妻入、桧葉の木の杮葺、桁行12.8、梁間15.1m
 日本で現存する最古の禅宗塔頭の庫裏
 禅宗塔頭庫裏の典型であり、かつて70人の僧侶が寝起きしていた居住空間、台所の役割を担った

 知客寮(ちかりょう)は、修行僧を監督する僧の部屋
 副司寮(ふくすりょう)(納所寮)(なっしょりょう)は、古参の弟子僧の部屋
 典座寮(てんざりょう)には、院内の人々の食事一般を司る僧の部屋
 殿司寮(でんすりょう)は、本堂での仏事・法要を司る僧の部屋
 隠司寮(いんじりょう)(三應寮)(さんのうりょう)は、住持・師匠の世話一切を司った
 火番寮(かばんりょう)は、火の要慎・院内警固を司る人、在家の寺勤務の人の部屋
 旦過寮(たんがりょう)は、旅の僧の宿泊する部屋

 1589年(皇紀2249)天正17年
 毛利元就の子 小早川隆景の寄進によって建立される
 1986年(皇紀2646)昭和61年
 解体修理された


 <書院 自休軒(じきゅうけん)>
 「囲み式書院造」といわれる
 大徳寺開山の宗峰妙超の遺墨「自休」を扁額にかけられ、「自休軒」と称される
 「お茶を喫して一休するような部屋」という意味がある
 後に、一休宗純や、千利休の名前に引用されたといわれる
 住持が、接客したり、手紙などを書く部屋とされた

 1652年(皇紀2312)慶安5年/承応元年
 益田元堯により建立される
 如意庵が廃寺されたときに移築されたといわれる


 <茶室 昨夢軒(さくむけん)
 武野紹鴎の作で、黄梅院では最も古い茶室
 当初は、境内の南東に独立して建てられた
 施主の号「昨夢斎」「昨夢庵寿林」より命名された
 「昨夢」とは、「生死涅槃尚如昨夢」にちなむといわれる
 炉は四畳半切、大目床、棹縁天井、大面取り長押の書院風
 席は北面に一間床、本勝手(お客が主人の右手に座る茶席)
 床に向って右の壁の前が亭主が点前を行う点前座になり、亭主は向って左の襖を開けて中に入る
 床に墨跡窓が開けられている
 水屋は、東側の襖の奥にあり、丸炉がある

 武野紹鴎年忌法要のときに、追善法要のために娘婿 今井宗久の寄進により茶席が組み込まれたといわれる
 1652年(皇紀2312)慶安5年/承応元年
 書院 自休軒が建立されたときに移され、自休軒に組み込まれた
 書院座敷が続く一室を茶室として用いて、屏風で区切り「囲(かこい)」と称したことで、「囲み式書院造」と称される


 <茶室 向春庵(こうしゅんあん)>
 数寄屋建築
 1998年(皇紀2658)平成10年の建立
 裏千家15代 鵬雲斎家元好みの5畳半中板小間仕立の茶室「鳳來庵(ほうらいあん)」や、
 立礼席の「閑庵(かんあん)」、
 20畳広間「玄徳軒」がある
 回廊で小間席「一枝庵」とつながっている

 <小間席 一枝庵>
 裏千家15代 鵬雲斎家元好み
 半板入り、一畳台目向板
 1999年(皇紀2659)平成11年の建立

 <茶室 不動軒 >
 四畳半


 <唐門(重要文化財)>
 本堂の南の前庭東にある
 檜皮葺
 1586年(皇紀2246)天正14年
 本堂と同時期に、豊臣秀吉により建立される


 <表門>
 兜型門
 庫裏と同じく小早川隆景により建立される
 2005年(皇紀2665)平成17年
 修理が行われた


 <鐘楼>
 獅子頭の彫刻が施されている
 益田元祥(ますだもとなが)により建立された

 梵鐘は、朝鮮より伝来したもので獅子頭の彫刻が施されている  1592年(皇紀2252)天正20年
 加藤清正により寄進されたもの


 <墓地>
 毛利元就、正室 妙玖夫妻のお墓
 大名 毛利輝元のお墓
 織田家の墓所
 織田信長次女 冬姫と、夫のキリシタン大名 蒲生氏郷のお墓
 小早川隆景と、息子 三兄弟
 南宋画家 小田海遷、画家 雲谷等益、画家 雲谷友雪、医師 北小路家16代 北小路貞一のお墓
 映画監督 大曽根辰保のお墓


 <寮舎「不動軒」>
 天正年間(1573年~1592年)の建立

 <寮舎「向春院」>
 黄梅院の山門の左側にあったもの
 慶長年間(1596年~1615年)から元和年間(1615年~1624年)の建立
 大徳寺135世 黄梅院3世 宝叔宗珍(ほうしゅくそうちん)が開祖にする
 清水景治により改修される
 天明年間(1781年~1789年)に廃止になる


【黄梅院の寺宝】

 <襖絵 紙本墨画44面(重要文化財)>
 本堂の内部の水墨画の襖絵
 毛利家 御用絵師で、雪舟の画風を継承した雲谷派の祖 雲谷等顔(うんこくとうがん)の筆
 室中の間の「竹林七賢図」16面、「山水図」14面
 檀那の間の「西湖図」14面
 礼の間に「芦雁図(蘆雁図)」14面

 1598年(皇紀2258)慶長3年
 小早川隆景により寺内が整備されたときに描かれたといわれる


 <書院 自休軒の襖絵>
 雪舟4代 雲谷派 雲谷等益の「山水図」8面、「秋草図」12面
 北西の間に、南宋画家 小田海遷の「五柳先生図」8面

 <黄梅院文書>
 塔頭文書としてまとまっており貴重なもの
 京都大学の所蔵

【黄梅院へのアクセス】

 市バス 大徳寺前 徒歩すぐ

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