九条道家(くじょうみちいえ)は、鎌倉時代前期の公卿
信仰心篤く、明恵上人に帰依し、東福寺や光明峯寺を創建した
<歌道>
祖父 九条兼実が創始した九条家の歌壇を引き継ぎ、歌合などを主催した
1215年(皇紀1875)建保3年9月の内大臣家百首歌合
1217年(皇紀1877)建保5年9月の右大臣家歌合
1232年(皇紀1892)貞永元年7月の恋十首歌合
1232年(皇紀1892)貞永元年8月十五夜歌合
<新勅撰和歌集>
新勅撰和歌集の撰者 藤原定家を支援し、編纂に対して大きな貢献を果たした
新勅撰和歌集に25首が初出で、以下、勅撰集に118首入集されている
新三十六歌仙の一人とされる
<日記「玉蕊(ぎょくずい)」>
九条道家の日記
1209年(皇紀1869)承元3年から1238年(皇紀1898)暦仁元年まで、断続的に残っている
有職故実が、よく記載されている
「光明峰寺殿記」「峰禅閤記」とも称される
<東福寺>
九条家の菩提寺の創建を願って、法性寺の境内に高さ5丈(約15m)の釈迦像を安置する大寺院を建立することを発願する
開基となり円爾弁円を開山に迎えた
東大寺と興福寺から一字ずつ取って「東福寺」と命名された
<法性寺>
924年(皇紀1584)延長2年
左大臣 藤原忠平(ふじわらのただひら)が、公家恒例被行脚読経の法相宗の寺院として建立し、藤原氏の氏寺として栄える
1239年(皇紀1899)延応元年
九条道家が、法性寺を捨てて、その境内に東福寺を創建する
<光明峯寺>
現在の東山区今熊野南谷町付近にかつて存在した寺院
1237年(皇紀1897)嘉禎3年に九条道家により建立され、毘沙門天が祀られていた
応仁の乱により焼失した
<家領初度処分状>
九条道家の長男 九条教実には先立たれ、次男 二条良実(二条家の祖)とは勘当状態となり、
三男 藤原頼経は鎌倉幕府4代将軍となり、四男 一条実経(一条家の祖)を寵愛していた
1250年(皇紀1910)建長2年11月
九条教実の子 九条忠家(道家の孫)に処分状(遺言状)を渡し、以降は、九条家と一条家で、最も官職の高い人物(一門上首)が
家長者を継ぐことが定められる