九条道家(くじょうみちいえ)(Michiie Kujyo)

鎌倉時代前期の公卿

生年:1193年(皇紀1853)建久4年6月28日
没年:1252年(皇紀1912)建長4年2月21日
享年:60

父親:摂政 九条良経
長男
母親:一条能保の娘(源頼朝の姪)

妻:西園寺綸子(太政大臣 西園寺公経の娘)
長男:九条教実(摂政・関白・藤原氏長者)
次男:二条良実(二条家の祖)
三男:藤原頼経(鎌倉幕府4代将軍)
四男:一条実経(関白・一条家の祖)
長女:しゅんし(藻壁門院)(後堀河天皇中宮・四条天皇の母親)
次女:仁子(摂政・関白・藤原氏長者 近衛兼経の正室)

号:光明峯寺殿、峯殿
法名:行慧

官位:従一位
官職:准三宮・摂政・関白・左大臣

 九条道家(くじょうみちいえ)は、鎌倉時代前期の公卿

 信仰心篤く、明恵上人に帰依し、東福寺や光明峯寺を創建した

【九条道家の歴史・経緯】

【九条道家の文化活動】

 <歌道
 祖父 九条兼実が創始した九条家の歌壇を引き継ぎ、歌合などを主催した
 1215年(皇紀1875)建保3年9月の内大臣家百首歌合
 1217年(皇紀1877)建保5年9月の右大臣家歌合
 1232年(皇紀1892)貞永元年7月の恋十首歌合
 1232年(皇紀1892)貞永元年8月十五夜歌合

 <新勅撰和歌集
 新勅撰和歌集の撰者 藤原定家を支援し、編纂に対して大きな貢献を果たした
 新勅撰和歌集に25首が初出で、以下、勅撰集に118首入集されている
 新三十六歌仙の一人とされる

 <日記「玉蕊(ぎょくずい)」>
 九条道家の日記
 1209年(皇紀1869)承元3年から1238年(皇紀1898)暦仁元年まで、断続的に残っている
 有職故実が、よく記載されている
 「光明峰寺殿記」「峰禅閤記」とも称される

【九条道家ゆかりの地】

 <東福寺
 九条家の菩提寺の創建を願って、法性寺の境内に高さ5丈(約15m)の釈迦像を安置する大寺院を建立することを発願する
 開基となり円爾弁円を開山に迎えた
 東大寺と興福寺から一字ずつ取って「東福寺」と命名された

 <法性寺
 924年(皇紀1584)延長2年
 左大臣 藤原忠平(ふじわらのただひら)が、公家恒例被行脚読経の法相宗の寺院として建立し、藤原氏の氏寺として栄える
 1239年(皇紀1899)延応元年

 九条道家が、法性寺を捨てて、その境内に東福寺を創建する

【その他】

 <光明峯寺>
 現在の東山区今熊野南谷町付近にかつて存在した寺院
 1237年(皇紀1897)嘉禎3年に九条道家により建立され、毘沙門天が祀られていた
 応仁の乱により焼失した

 <家領初度処分状>
 九条道家の長男 九条教実には先立たれ、次男 二条良実(二条家の祖)とは勘当状態となり、
三男 藤原頼経は鎌倉幕府4代将軍となり、四男 一条実経(一条家の祖)を寵愛していた
 1250年(皇紀1910)建長2年11月
 九条教実の子 九条忠家(道家の孫)に処分状(遺言状)を渡し、以降は、九条家と一条家で、最も官職の高い人物(一門上首)が
家長者を継ぐことが定められる


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