近衛家(このえけ)は、藤原北家の嫡流の公家、五摂家の一つ
藤原北家嫡流の藤原忠通の長男 藤原基実(近衛基実)を祖とする(三男の九条兼実は九条家の祖)
子の藤原基通が、平安京の近衛大路の北、室町の東の邸宅を「近衛殿」と称したことが名前の由来
近衛大路に面する宮門号にちなんで「陽明家」とも称する
基本的に実系で承継してきたが、2度養子を迎えている
<近衛基実>(1143年 - 1166年)
<近衛基通>(1160年 - 1223年)
<近衛家実>(1179年 - 1242年)
<近衛兼経>(1210年 - 1259年)
<近衛前久>(1536年 - 1612年)
<近衛信尹>(1565年 - 1614年)
継子なくして死去する
<近衛信尋>(1599年 - 1649年)
養子(近衛前久の外孫で、後陽成天皇の第4皇子)
<近衛基熙>(1648年 - 1722年)
<近衛家熙>(1667年 - 1736年)
<近衛忠煕>(1808年 - 1898年)
<近衛篤麿>(1863年 - 1904年)
<近衛文麿>(1891年 - 1945年)
内閣総理大臣
<近衛秀麿>(1898年 - 1973年)
近衛文麿の異母弟
指揮者・作曲家
近衛文隆
近衛文麿の長男
継子がないまま死去する
<近衛忠煇>(1939年 - )
養子(近衛文麿の外孫で、細川護貞の次男)
近衛文隆夫人の養子となり、近衛家を継ぐ
日本赤十字社社長
<近衛殿>
1158年(皇紀1818)保元3年
藤原基通(近衛基通)が内大臣、摂政関白となり、京都近衛の北、室町の東に屋敷を構えた
江戸時代
現在の京都御苑の北西(同志社大学今出川キャンパスの向かい)にあった
近衛池を囲む庭園などが保存されている
隣の桂宮家邸跡には築地塀や表門が残っている
池の周囲には、大きな枝垂れ桜(糸桜)「近衛桜」がある
東福寺塔頭 勝林寺には、近衛家の大玄関が移築され、お堂として用いられている
西大寺(奈良)には、近衛家の政所御殿(寝殿造)が移築され、愛染堂として用いられている
西尾城(愛知)には、近衛家の数奇屋棟と茶室棟が移築されている
<近衛家別邸 御花畑屋敷跡>
上京区室町通鞍馬口通下ル森之木町
左大臣 近衛基前の正室 維学心院の隠居屋敷だったところ
<大徳寺近衛家廟所>
近衛家の代々のお墓がある
<陽明文庫>
近衛家伝来の古文書、典籍、記録、日記、書状、古美術品など約20万点の史料が保管されている
<藤原北家(ふじわらほっけ)>
藤原氏祖 藤原鎌足の孫であり、右大臣 藤原不比等の次男である藤原房前を祖とする家系
藤原房前の邸宅が、兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことが名前の由来
嫡流は、藤原忠通の長男 近衛基実を祖とする近衛流(近衛家)と、藤原忠通の三男 九条兼実を祖とする九条流(九条家・一条家)の
2流となっている
<五摂家>
藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5つの家
摂政・関白、太政大臣に昇任できた家系
近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家
九条道家(九条家始祖の九条兼実の孫)の長男の子 九条忠家が新九条家、次男 九条良実が二条家、
四男 九条実経が一条家を創始する
<牡丹紋(ぼたんもん)>
家紋の一種で、牡丹の花や葉を図案化したものがある
関白 近衛家が、車紋(牛車の紋)として使用したのが最初といわれる
<京舞井上流>
寛政年間(1789年〜1801年)
近衛家・一条家・仙洞御所などの舞指南役を勤めた井上サト(初代井上八千代)が、宮廷文化を基盤に創始する
扇の図柄は、全て「近衛引(このえびき)」で、白骨で金地のところに、五摂家 近衛家の井菱の定紋が白ぬきで入っている