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丹波平定(たんばへいてい)

所在地:丹波国   ちず丸地図情報

現在の亀岡市・南丹市・福知山市・綾部市・京都市の一部と京丹波町、兵庫県の篠山市・丹波市、
大阪府の高槻市の一部・豊能郡の一部にわたっている

 丹波平定(たんばへいてい)は、戦国時代に、明智光秀により丹波国が平定され統治されたこと

 都の隣国にあり、全国統一のための最も重要な拠点とされ、
織田信長は、戦国武将一の知将とされる明智光秀に、唯一、一国の統治を任せ治めさせた

 丹波は長い間、中央の支配者を拒絶してきた多くの国人衆の勢力が各地に広がり、
織田信長の、国中を焼き払い皆殺しにする手法には反抗が大きかった

 明智光秀は、兵力や兵糧の調達、統治人の採用なども、敵地の丹波で行わなければならない極めて困難な攻略を、
4年ほどかかり成功させた

 豊臣秀吉が播磨攻略の失態で招いた離反の援護対処や、石山本願寺・紀伊雑賀攻めの支援を行いながらの攻略になり、
信長が「光秀の勲功が第一で、秀吉はその次」と評価をしている

 平定後の明智光秀は、人事政策・納税政策・治水事業などにも優れ、領民から慕われた名君とされた

【丹波平定の経緯】

 1575年(皇紀2235)天正3年正月
 明智光秀は、朝廷より、従五位下と「惟任(これとう)」の姓を賜り、日向守に任じられる
 信長から、丹波平定を命じられる

 同年2月6日
 現在の亀岡市に入り、丹波国人の福井氏・宇津氏を攻める

 同年4月
 河内高屋城の三好康長を攻める

 同年5月
 近畿諸国での光秀の立場が強まり、織田家重臣のほとんどが参加した三河国での長篠の戦いにも参加しなかったといわれる

 同年6月
 信長光秀に、敵対する将軍 足利義昭に味方した丹波国人 宇津氏と、丹波守護代 内藤氏討伐の命を出す

 同年8月 越前一向一揆討伐
 信長に対抗する越前(福井県)の一向一揆の討伐を行い武功をあげる

 同年9月
 光秀は、越前(福井県)より坂本城に帰城


 同年10月初旬
 丹波征討戦の総大将として出陣する

 当時、織田方だった但馬守護職 山名氏の竹田城が、丹波国西部の土豪 赤井直正(荻野直正)の攻撃を受けていた
 竹田城は、生野銀山の守備城であり、領有権争いが絶えず起こっていた

 光秀は、竹田城を救援するように見せかけて急旋回し、赤井氏の黒井城(兵庫県丹波市)に進撃する
 赤井直正も、光秀の動きを察知し黒井城に帰城する

 同年11月 第1次黒井城の戦い
 光秀は、黒井城の周囲に数ヶ所の砦を築き、圧倒的兵力で速攻戦で黒井城を包囲する
 黒井城の兵糧は、翌春までは持たず、早期に落城するであろうといわれていた

 黒井城の四方の陣取り
  前方(南側)の平松のあたり:明智軍
  東側:大路城主 波多野秀香軍
  西側:霧山城主 波多野秀尚軍
  北側:八上城主 波多野秀治軍

 1576年(皇紀2236)天正4年1月15日
 三尾城城主 赤井幸家(赤井直正の弟)が、明智軍を襲撃する
 これに即応して突然、波多野秀治が裏切り、赤井氏に同調する丹波国人らにより3方向から攻撃を仕掛けられ、
 一旦、南西の柏原方面に退却しようとしたが、そこには高見城があり赤井忠家が待ち伏せており、
 光秀軍は黒井川に追いやられ総退却となる

 黒井城の戦いで勝利した赤井直正は「丹波の赤鬼」と称される


 同年4月14日
 信長に命じられ、信長に反抗する石山本願寺(現在の大阪城付近)を三方から包囲する

 同年5月11日
 光秀が、石山本願寺攻めの最中に、天王寺の陣所で病で倒れる

 1577年(皇紀2237)天正5年2月 紀伊雑賀攻め
 本願寺の主力となっていた雑賀衆の本拠である紀伊雑賀(和歌山市付近)を攻める

 同年10月5日 大和信貴山城の戦い
 信長を2度も裏切って信貴山城(奈良県生駒郡)に籠城する松永久秀を、織田信忠(信長の子)と共に攻略する


 続いてすぐに、第二次 丹波平定に取り掛かる

 同年10月29日
 丹波の入口にあたる多紀郡の籾井綱利の籾井城(兵庫県篠山市)を攻め、落城させ、丹波攻略の拠点とする

 守護代 内藤氏が立て籠もる亀山城亀岡市)を攻め、短期間で落城させる

 1578年(皇紀2238)天正6年2月
 光秀は、亀山城亀岡市)を築城し始め、丹波平定の本拠地とする

 同年2月
 隣の播磨国の攻略に派遣されていた羽柴秀吉が、東播磨 三木城の別所長治らの離反を招いてしまい、
 毛利攻略のために丹波国平定が急がれる

 細川藤孝に道路網を整備させ、丹波国から播磨国の秀吉救援軍を必要に応じてすぐに投入できるようにする

 同年3月
 上杉謙信が急死し、一気に信長が優勢になる
 翌月には、信長は、もう朝廷の力などは必要ないとして右大臣を放棄する

 同年3月9日
 「丹波の赤鬼」と称されていた黒井城の赤井直正が病死する


 同年3月14日
 光秀は、与力の細川藤孝・細川忠興父子と共に、丹波国一円に勢力を持っていた波多野秀治・波多野秀尚兄弟の
八上城(兵庫県篠山市)を取り囲み、包囲を完成させる

 その後間もなく、石山本願寺攻めに向かう

 黒井城の赤井直正の病死、八上城の包囲により、光秀を裏切った丹波国人衆が再び、光秀になびくようになる


 金山城(兵庫県篠山市と丹波市の中間)を築城し拠点として、八上城・黒井城の支城を攻略していく

 同年4月
 荒木氏綱の園部城を落城させる

 同年5月
 秀吉救援のため丹波から明石に出陣する

 同年7月16日
 神吉城(播磨国印南郡)(兵庫県加古川市)を落城させる

 同年11月
 三田城(兵庫県三田市)を落城させる


 1579年(皇紀2239)天正7年5月5日
 波多野宗長・宗貞父子が立て籠もる氷上城(兵庫県丹波市)を落城させる

 同年6月1日
 4年越しで兵糧攻めにしていた八上城(兵庫県篠山市)で、城内で波多野家臣らが反乱を起こし、
波多野三兄弟(秀治・秀尚・秀香)を捕らえ、光秀に引き渡し、八上城は落城する

 光秀は、波多野秀治を降伏させ、投降後の身の安全を保証するために、光秀の母親を人質に差し出していたが、
信長が、安土城下で、波多野三兄弟を処刑してしまい、波多野の家臣達により光秀の母親が殺されてしまったといわれる

 同年7月19日
 宇津頼重の立て籠もる宇津城に進撃
 宇津頼重は、城を捨てて逃げ出すが、捕らえられ処刑される

 光秀は、一気に近くの鬼箇城も攻め落とす


 同年7月初旬から  第二次黒井城の戦い
 細川藤孝・細川忠興・羽柴秀長・明智秀満らの光秀軍が、赤井忠家が立て籠もる黒井城の攻撃を仕掛ける

 同年8月9日早朝
 陽動作戦で手薄になった黒井城の千丈寺砦から攻め落とし、主曲輪に向けて総攻撃を仕掛ける
 赤井忠家は、奮戦するが、自ら火を放ち敗走し、黒井城が落ちる


 同年8月20日
 塩見信房とその弟 塩見信勝の横山城(福知山市)を落城させる
 その後、福智山城と改名し、大修築をして、城代に藤木権兵衛と明智秀満を置く

 同年10月
 一色義道の建部山城(丹後国加佐郡)(舞鶴市下福井)を落城する

 丹波国・丹後国の両国の平定をほぼ成し遂げる


 1580年(皇紀2240)天正8年
 信長より「粉骨のたびたびの功名、比類なき」と称賛され、
 近江国滋賀郡に加え、丹波一国(約29万石)を与えられ計34万石を領する

 光秀は、丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶等、近畿地方の織田大名の総合指揮権を与えられ、
 それらの所領を合わせると約240万石になった

【平定後の善政】

 <平山城>
 戦国時代においては、戦闘を第一に考えた「山城」が一般的であったが、
 亀山城・福智山城・坂本城などは、
 政務の場所として、領民の暮らしと一体になりえる平山城として、城下町も併せて構築されたといわれる


 <国人衆>
 鎌倉時代後期あたりから、領民は土地の国人衆などによって支配され、その国人衆らが領主によって支配される形態だった
 光秀は、この古い体制を排除し、
 土地のことをよく知る国人衆たちを家臣として取り立て、代官に任用して、その土地を治めさせた


 <幕臣衆>
 光秀は、足利家とも親交があり、旧幕臣衆を家臣として、出身・家柄など関係なく能力主義で採用し、
 家臣やその家族に対する慰労を手厚くもてなしたといわれる
 光秀の家臣団は、織田軍の中でも最も大きな軍団となった


 <納税政策>
 地子銭(住宅税・固定資産税など)を永代にわたって免除したといわれる


 <家中軍法>
 18条からなる明智軍団の秩序と規律を定めた
 100石単位で禄高に応じた役割の基準も定められている
 武具の手入れの仕方や、他の部将への挨拶の仕方なども定められている


 <治水事業>
 福知山市の御霊神社には、由良川と土師川の氾濫を防ぐために行った大規模な付替治水工事の功績を称える句碑がある

【顕彰イベント】

 <亀岡光秀まつり>
 5月3日
 明智光秀の慰霊祭や、
 亀岡市役所や亀山城跡などを中心に、光秀春日局細川ガラシャなどの武者行列の巡行が行われる

 <福知山お城まつり>
 4月中旬
 福知山駅前のききょう通りから御霊公園などで、光秀行列が巡行する

 <福知山御霊大祭>
 10月上旬
 光秀ききょうまつりなども行われる

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