天明の大火(てんめいのたいか)は、江戸時代中期におきた京都の歴史上最大の火災
1788年(皇紀2448)天明8年1月30日の朝4時頃、鴨川の東の団栗辻子の民家から出火
1月30日朝〜2月2日朝までと二昼夜燃えつづけた応仁の乱以来の京都の歴史上最大の火災となった
出火
鴨川の東の、団栗橋(四条大橋の南の橋)のあたりの宮川町団栗辻子の町家
このことから「団栗焼け(どんぐりやけ)」と称される
延焼
またたく間に、宮川筋を五条問屋まで焼く
東からの強風に吹かれて、鴨川の対岸の永養寺に燃え移り、火は、鴨川を越えて西・北に広がった
範囲は、北は鞍馬口通、南は七条通、東は鴨川の東、西は千本通と、当時の京都市街地のほぼ全域にわたり、
約80%が焼失した
江戸幕府の「罹災記録(りさいきろく)」によると
1967町のうち焼失した町1424町
焼失した家36,797軒
焼失した竈数(かまどすう)(世帯数)65,340軒
焼失した神社37社
焼失した寺院201寺
死者150人
3月になり、江戸幕府は、「御救(おすくい)」として米3000俵、銀60貫目を分配する
4月には、大坂城に貯えてあった味噌が分配される
それまで禁止されていた諸国からの大工・屋根屋・瓦屋・左官・鍛冶師・畳屋などの雇い入れを解禁する
それにより、京都は、建設ラッシュとなり、復興景気で賑わったといわれる
天明の大火の史跡はあまりない
<清浄華院の供養塔>
「横死焼亡百五十人之墓」と記されている五輪塔と石碑がある
大火の後、3月24日から7日間、施餓鬼供養が行われたという
<西本願寺の銀杏>
御御影堂の前に生育している樹齢300年の大銀杏
天明の大火のとき、御影堂へ水を吹きかけ類焼を防いだといわれる
西本願寺の七不思議の一つ
<蛤御門>
京都御苑の西側に位置する新在家御門
天明の大火により、それまで常に閉じられていた新在家御門が初めて開門されたことから、
焼けて口を開ける蛤に例えられ「蛤御門」と称されるようになる
<円通寺(上京区)>
天明の大火の犠牲者を供養する石碑がある
「為焼亡横死(しょうぼうおうしのため)」と記されている