京都御苑(きょうとぎょえん)は、京都御所の周囲の国民公園
京都御所を中心に、大小200もの宮家や公家たちの屋敷が建ち並ぶ公家町が形成されていたところ
外周を石積土塁で囲まれ、9ヶ所の御門と5ヶ所の切り通しから出入りする
苑内には、明治時代の大内保存事業による整備で約5万本の樹木が生育し、京都御所周辺の由緒ある景観が維持されている
南北1300m、東西700m、一周4km
(北側)今出川通、(南側)丸太町通、(西側)烏丸通、(東側)寺町通
京都御苑には9つの御門、京都御所には6つの御門がある
<堺町御門>
御苑の南面にある唯一の御門で、丸太町通に面している
蛤御門の変(禁門の変)のとき、新選組がいち早く駆けつけ、近隣の宮家に潜む長州藩藩兵を追い払い御門を守ったといわれる
京都三大祭の葵祭、時代祭の行列が、この御門から出ていく
<寺町御門>
御苑の東側にある3つの門のうち一番南にある
<清和院御門>
御苑の東側の真ん中の門
苑内から東を見ると、御門の後ろに大文字山が眺められる
<石薬師御門>
御苑の東側にある3つの門のうち一番北にある
<今出川御門>
御苑の北側にある唯一の御門で、今出川通に面する
<乾御門>
御苑の西側にある4つの門のうち一番北にある
御所の西北(乾)(いぬい)に位置することから、名付けられている
<中立売御門>
御苑の西側の乾御門の南にある
京都御所の宣秋門につながっている
<蛤御門>
御苑の西側の中立売御門の南にあり、公家町の出入口となっている
「新在家御門」と称されて、常に閉ざされていた
1708年(皇紀2368)宝永5年
宝永の大火により、初めて開門されたことから「焼けて口開く蛤」にたとえられ「蛤御門」と称される
1864年(皇紀2524)元治元年
幕末の尊王攘夷派の長州藩と徳川幕府派の会津藩との蛤御門の変(禁門の変)で、最大の激戦地となり、銃弾の跡が門に残る
<下立売御門>
御苑の西側にある4つの門のうち一番南にある
<建礼門前大通>
京都御所の正門 建礼門前から南に延びる大通り
沿道には、広々とした芝生地と松が育成される
1883年(皇紀2543)明治16年
大内保存事業により設けられる
1914年(皇紀2574)大正3年
大正天皇御大典を行うための改良工事で、現在の規模に拡幅される
京都三大祭の葵祭、時代祭の行列が、建礼門前から出発し、この通りを通って市中に出て行く
<京都御所>
1331年(皇紀1991)元弘元年
光厳天皇が、里内裏の一つ東洞院土御門殿で即位され、以来、御所となる
1855年(皇紀2515)安政2年
現在の建物が平安京の内裏にならって再建される
<猿ヶ辻>
京都御所の東北角
鬼門とされ、築地塀の角を欠いて、日吉山王社の神のお使いの猿が祀られている
猿が、夜な夜な抜け出して暴れるため、金網で封じ込めたといわれる
<仙洞御所>
江戸時代初期
皇位を譲位された後水尾上皇の御所として創建される
何度か火災と再建が行われ、現在は、建物はなく庭園が残されている
1636年(皇紀2296)寛永13年
江戸幕府の作事奉行 小堀遠州の作庭
1664年(皇紀2324)寛文4年
後水尾上皇が手を加えたものといわれる
北池と南池を巡りながら、四季折々の風景が楽しめる池泉回遊式庭園
<大宮御所>
仙洞御所の北側に隣接する
後水尾天皇の皇后であり、徳川秀忠の娘 東福門院和子の御所として創建されたもの
皇太后などの女院御所として使われたが、再三の火災で焼失する
現在の建物は、孝明天皇の皇后 英照皇太后の御所として創建されたもの
天皇陛下や皇太子殿下、国賓の宿泊などに利用されている
<国立京都迎賓館>
外国の王族、大統領、首相などの国賓が来られたときに宿泊などの接遇を行う施設
<宴の松原>
大内裏の中央の内裏の西、豊楽院の北にあった松林
<近衛邸跡>
御苑の北西部
摂政や関白を多く出した五摂家の一つ近衛家の邸宅跡
枝垂れ桜の大木が約30本あり、早咲きの3月下旬から約1ヶ月間程咲き誇る桜の名所
<閑院宮邸跡>
閑院宮は、伏見宮、八条宮(桂宮)、有栖川宮と並ぶ四親王家の一つ
南西に邸宅跡が残っている
京都御苑の自然と歴史についての写真、絵図などの収納展示室と庭園などが開放されている
<九条家屋敷跡>
五摂家の一つ九条家の屋敷の庭園の遺構
茶室 拾翠亭は、江戸時代後期の創建
1778年(皇紀2438)安永7年
九条池が、拾翠亭からの眺めのために、東山を借景として作られる
<鷹司邸跡(たかつかさていあと)>
鎌倉時代中期に近衛家からわかれた五摂家の一つ
江戸時代中期には、閑院宮の皇子 淳宮(あつみや)が鷹司家を継いだ
孫の政通は、江戸時代後期に30年以上も関白を努め、九条尚忠に譲った後も、内覧、太閤として朝廷の重要な役目を担った
政通夫人は、水戸藩主 徳川斉昭の姉
1864年(皇紀2524)元治元年の禁門の変のとき、長州藩藩士が邸内に入り、屋敷に火を付けたことで大火になっていった
<学習院発祥の地>
京都御所の東側、建春門前
江戸時代後期
1847年(皇紀2507)弘化4年
孝明天皇が、40歳以下の公卿や御所に勤める役人、その子供たちに学問を教える学習所を創建する
国学や歴史などが教えられていた
現在、東京にある学習院は、明治天皇が、この由緒から名付けられたもの
クロ松の木に落ちた、ヤマザクラの種が芽を出して生育した「サクラマツ」がある
<祐井(さちのい)>
明治天皇生誕の地「中山邸跡」にある井戸
<皇女 和宮内親王生誕の地>
橋本家跡
<凝華洞跡(ぎょうかどうあと)>
後西天皇の退位の後の仙洞御所があったところといわれる
京都守護職に任じられていた会津藩藩主 松平容保が病気になり、朝廷の配慮でここを仮宿舎とした
丘の上の松の横には、東本願寺が寄進した灯籠があり、南には池があった
大正大礼前の改良で池が埋められ、灯籠は九条池畔に移され、現在は台座だけ残っている
京都御苑には、3つの神社があり、いずれも公家の邸宅内の鎮守社とされる
<厳島神社>
京都御苑内の南西の九条邸跡にある
唐破風鳥居(からはふとりい)は、京都三珍鳥居の一つ(北野天満宮の伴氏社、蚕の社三鳥居)
<宗像神社>
厳島神社の北西の花山院家跡にある
<白雲神社>
宗像神社の北にある西園寺家の鎮守社
「御所の弁天さん」と称される弁財天を祀る
<梅林>
京都御所の南西側、蛤御門の南側
金鵄梅、豊後梅、珊瑚梅、薄霞の梅、冬至梅、黒木の梅、楊貴妃など
約20種約250本の梅の木がある
京都各地の神社から譲り受けた穂を接ぎ木で育成されたもの
2月中旬から3月中旬に赤、白、ピンクの花を咲かせる
<桃林>
梅林の北隣
約100本の桃の木がある
3月中旬頃から4月中旬頃が見頃
<出水の小川>
長さ約110m、深さ約20cmの人工の小川
川底には、苑路と同じ琵琶湖安曇川産の石が敷かれている
夏には水遊びができる
明治時代、琵琶湖疏水を三条蹴上で分水した、防火用の専用水路の御所水道(ごしょすいどう)があった
1981年(皇紀2641)昭和56年、御所水道の御所周りの流路「御溝水(ごかわみず)」から導水して出水の小川が作られた
1992年(皇紀2652)平成4年、御所水道が閉鎖になり、現在は、井戸からの地下水を循環濾過して流れを維持されている
<トンボ池>
一辺が約15mのほぼ正方形の人工の池
トンボや蝶などが見られる自然観察園
蓮(ハス)が池全体を覆い尽くしている
<アオバズク>
毎年4月下旬頃から10月頃
宗像神社の周りの楠(クスノキ)の大木に、アオバズクが訪れ営巣する
1992年(皇紀2652)平成4年
「アオバズクの住む森」として、京都府の自然200選に選定される
明治時代
大内保存事業による整備で植栽が行われる
約5万本の樹木が生育する
近衛邸跡の糸桜、清所門前の車還桜、凝華洞跡付近のヤマザクラ、鷹司邸跡付近の御衣黄、閑院宮邸跡付近の大島桜、
学習院発祥の地のサクラマツ、出水の小川付近のサトザクラ、梅、桃
約400種の植物が生育する
芝地のカンサイタンポポの群落
約90種以上野鳥
オオタカ、アオバズクの繁殖
約400種のキノコ類
マツカサを分解するマツカサタケなど
<清水谷家の椋(しみずたにけのむく)>
京都御所の南西にある
樹齢約300年の椋(むく)の大木
この付近に公家 清水谷家の屋敷があった
1864年(皇紀2524)元治元年の蛤御門の変(禁門の変)のとき、長州藩藩士で遊撃隊の総督だった来島又兵衛が
この付近で討死したといわれる
<桜松(サクラマツ)>
学習院発祥の地にある
クロ松の木に落ちたヤマザクラの種が、芽を出して生育し「松木の桜」とも称される
クロ松の樹齢は約100年、ヤマザクラは樹齢約40年と推定される
枯れたクロ松の空洞から、地中までヤマザクラの根が張っている
1996年(皇紀2656)平成8年4月に倒れてしまう
<葵祭>
5月15日
午前10時に、京都御所内で「進発の儀」が行われ、行列に参加する人馬が、宜秋門から出て列を整える
路頭の儀において、午前10時30分に、先頭が、建礼門前を出発し下鴨神社へ、さらに賀茂街道を北上して上賀茂神社へ向かう
<時代祭>
10月22日
時代行列が、京都御所の建礼門院前を12時00分に出発し、平安神宮へ向かう
<京都博覧会>
1873年(皇紀2533)明治6年
第2回〜第9回が、京都御苑の大宮御所、仙洞御所で行われた
1881年(皇紀2541)明治14年
第10回より、京都御苑の東南の一角に、常設の博覧会場が建設された
1897年(皇紀2557)明治30年
岡崎に博覧会館が建設され、開催地が移る