綾戸國中神社(あやとくなかじんじゃ)は、南区の桂川の西岸、久世橋の西、新幹線高架直下東側にある神社
かつては、綾戸宮と國中宮の2社であったが、現在では合祀されて一社殿二扉となっている
祇園祭の久世駒形稚児ゆかりの神社
本殿の一つ屋根の社殿の中に、左に綾戸宮、右に國中宮が祀られている
<左 綾戸宮>
大綾津日神(おおあやつひのかみ)、大直日神(おほなおひのかみ)、神直日神(かみなほひのかみ)
桂川の七瀬の祓神で、災いごとを払ったり鎮めるご利益がある
災いをもたらす大綾津日神は、禍津日神(まがつひのかみ)と同一神格とされ、禍津日神は素戔嗚尊の荒御魂とされる
大直日神、神直日神は、災い鎮めて福に転じさせる神さん
綾(あや)の語源は、平安時代以来、桂川は桂鮎が名産であり、鮎の集まる瀬戸、鮎門(あゆと)にあるといわれる
鮎が、神饌として供されていた
式内社の山城國乙訓郡 茨田神社(またのじんじゃ)に比定される
<右 國中神社>
素戔嗚尊
馬関係者の信仰を集めている
式内社の山城國乙訓郡 國中神社(くなかのじんじゃ)に比定される
<神紋>
八坂神社と同じ左三巴紋
<本殿>
1936年(皇紀2596)昭和11年秋の再建
南向きの一社殿二扉
<西鳥居>
<南鳥居>
<拝殿>
<手水社>
<神饌所>
<記念碑>
東海道新幹線建設にともなう境内移転についての経緯が記されている
<御神体>
國中社の御神体は、駒形(馬の首の彫り物)
通常の神社の御神体は、三種の神器(勾玉・剣・鏡)や神石とされるが、珍しいもの
<社号の額>
後冷泉天皇の宸筆(しんぴつ)といわれる
<歳旦祭> 1月1日
<祈年祭> 4月中旬
<例祭> 5月第2日曜日
<駒形稚児発表奉告祭> 6月15日
<大祓式> 6月30日
<祇園祭
奉告の神事(久世駒形稚児決まる) 6月15日
社参の儀(八坂神社へ参拝) 7月13日
神幸祭 7月17日
還幸祭 7月24日
<新嘗祭> 11月23日
<大祓式> 12月31日
<久世駒形稚児(ぐぜこまがたちご)>
祇園祭において
山城国乙訓郡訓世村(現在の南区久世上久世町)の綾戸國中神社の氏子から2人の稚児が選ばれる
紙垂を付けた木製の駒頭(こまがしら)を胸に着け、神位を得て、神さんそのものになることを意味する
7月13日に、八坂神社に社参する
7月17日の神幸祭、7月24日の還幸祭では、素戔嗚尊がのる中御座神輿の先導をつとめる
神代の頃、山城の地の西にあった岡訓世の郷が、まだ一面湖水のとき、
午頭天王(素戔嗚尊)が、天から降りられ、水を切り流し、土地を開いて広々とした平野とされたといわれる
その国の中心付近に、新羅に渡海する前の形見として「符」を与えたといわれる
その「符」とは、素戔嗚尊の愛馬の天幸駒の頭を自ら彫刻されたもの
その形見の符が、國中社の御神体とされる
訓世の郷から、祇園祭に供奉する稚児が、胸に御神体である駒の頭の彫刻を棒持することから「久世駒形稚児」と称される
古文書により
「國中社は、素戔嗚尊の荒御魂なり。八坂郷祇園社は、素戔嗚尊の和御魂なり。
依って一体にして二神、二神にして一体で、神秘の極みなり。」
「御神幸の七月十七日に訓世の駒形稚児の到着なくば、御神輿は八坂神社から一歩も動かすことならぬ。
若し此の駒故なくしてお滞りあるときは、必ず疫病流行し人々大いに悩む。」
と伝えられている
駒形を奉持する稚児は、神位(神さんそのもの)とされ、
八坂神社境内を南楼門より騎馬のまま参入し、拝殿を三週回り、その後、強力(ごうりき)さんに担がれて、
一歩も地を踏むことなく、本殿に昇殿し祭典に臨み、神酒洗米を勧め、玉串拝礼をして稚児餅を受ける
長刀鉾の稚児も、皇族であっても、南楼門で下馬をして境内は徒歩で歩く
神幸祭、還幸祭では、素戔嗚尊がのる中御座神輿の先導をつとめる
八坂神社の素戔嗚尊は穏やかな性質をもった和御魂(にぎみたま)で、
國中社の素戔嗚尊は、荒々しい性質をもった荒御魂(あらみたま)とされる
2つの御魂が合わさることによって、祭が無事に催行できるとされ、
國中社から駒形稚児が到着しなければ、御神輿を動かすことができず、疫病が都に蔓延してしまうとされていた
<夜叉子講>
久世郷内の各家の7歳から10歳の嫡男の、郷内でのお披露目の儀式