護王神社絵巻(ごおうじんじゃえまき)

所在地:護王神社京都市上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町)   地図情報

 護王神社絵巻(ごおうじんじゃえまき)は、護王神社烏丸通に面した玉垣に掲げられている絵巻

 和気清麻呂と姉 和気広虫の生い立ちや功績、道鏡事件(宇佐八幡宮神託事件)、猪にまつわる故事などが語られている

 1998年(皇紀2658)平成10年10月
 「和気清麻呂公命千二百祭記念」と記されている

 出典 講談社の絵本より
 絵 萩生 天泉

【護王神社 ご祭神 和気清麻呂公命 和気広虫姫命 絵巻】


 和気清麻呂は子供の時、姉の広虫姫と一緒に、
 両親から「ご先祖様は偉い方でした。大きくなったら天子さまに尽くすように。」と聞かされていました

 和気清麻呂は奈良の都へ上ることになりました
 お母さんと先生が見送ってくださいました

 和気広虫は、法均という尼さんになって、天子さまにお使えしました
 ある年、ひどい飢饉のために食物がなくなったので、子供がたくさん捨てられました
 姫はその子供たちを助けました


 広虫が拾い上げた子供は八十三人にもなりました
 姫はみんな自分のようにかわいがって育てました

 そのころ、道鏡とうい僧侶がいて、政治に口出しをして勝手なことをしていました
 役人は恐れてご機嫌を取るだけでした

   ある時、宇佐八幡宮のお告げとして 「道鏡を天子さまにするように。」と伝えた者がありました
 そこで天子さまは、清麻呂公をお呼びになって、
「その宇佐八幡宮のお告げが本当かどうか正してまいれ。」と言いつけられました


 道鏡は清麻呂公に、
「わしの望みがかなったら、おまえを重い役目にしてやるからよろしく頼む。」と言いました

 友達の路豊永は清麻呂公に、
「もし道鏡の望みをかなえるようなことがあれば、私はいきていません。」と言いました

 清麻呂公が宇佐へたつ前、
 広虫姫は「大事な使いです。覚悟を決めてしっかりやりなさい。」と励ましました


 清麻呂公は都を離れ宇佐へ向かいました

 宇佐に着いた清麻呂公は、八幡宮に一心にお祈りしました
 すると、「我が国は神代から君と家来の区別がはっきりと決まっている
どんなことがあっても家来を天子さまにすることはできない。道にそむく者は早く追い払ってしまえ。」
という神のお告げがありました

 清麻呂公は都に帰り、神のお告げを天子さまにお答えしました


 広虫様は清麻呂公の帰るのを待ち受けて、その功績を讃え喜びました

 道鏡は怒って、清麻呂公を大隅国(鹿児島県)へ、広虫姫を備後国(広島県)へ流しました

 道鏡は清麻呂公を途中で殺そうと思い、家来に追いかけさせました
 その時、急に大嵐になったので、みんな逃げてしまいました


 清麻呂公が豊前国(大分県)の山道を通っていくと、
 どこからたくさんの猪が出てきて、清麻呂公の前や後を護ってお供しました

 清麻呂公は、大隅国で少しの間の天子さまのことを忘れていません
 藤原百川はお米を送って慰めました

 広虫姫が備後国で暮らしていた時、都から干し柿が届きました
 姫が育てた子供たち送ってくれたのでした


 一年あまりたちました
 天子さまからお使いがあって、清麻呂公と広虫姫は、都へ呼び返されることになりました

 道鏡は下野国(栃木県)へ流されることになりました

 清麻呂公と広虫姫はいよいよ重く用いられました


 桓武天皇は、都を奈良から今の京都へお移しになることになりました
 清麻呂公は都を造る長官になって尽くされました

 都が立派にできあがったので、桓武天皇は京都へ移られました
 京都はその後、平安京として千年あまりも栄えました

 これは、護王神社です
 このお社に和気清麻呂公と広虫姫が御祭神として祀られています
 藤原百川と路豊永もここに配祀されています

【護王神社へのアクセス】

 市バス・京都バス 烏丸下長者町 徒歩すぐ
 地下鉄 丸太町駅 徒歩約7分

[インデックス]


京都通メンバページ

写真:表示/非表示

フェイスブックでシェア LINEで送る

[目次]


[関連項目]


[協賛リンク]



[凡例]

赤字
 京都検定の出題事項
 (過去問は下段に掲載)

ピンク
 京都検定に出題された
項目へのリンク

青色紫色
 関連項目へのリンク