地図情報
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高陽院跡(かやのいんあと)・高陽院邸跡は、平安京にあった里内裏の一つの跡地
丸太町通を堀川通から東側のビルの前に「高陽院跡」と「高陽院邸跡」の銘板が置かれている
平安時代初期には、桓武天皇の第七皇子 賀陽親王の邸宅「賀陽院(かやのいん)」があった
<高陽院邸>
平安時代初期
当初は、桓武天皇の第七皇子 賀陽親王(かやしんのう)の邸宅
平安京左京二条二坊十町の南北2町(約250m四方)にあった
北は中御門大路、西は堀川小路、東は西洞院大路、南は大炊御門大路に囲まれていた
平安時代初期
藤原頼通が、敷地を4町(左京二条二坊九町・十町・十五町・十六町)に拡大し、
藤原頼通の長期政権の拠点とする
他の貴族邸宅の4倍の広さだった
「栄花物語」には、寝殿の四方を池に囲まれたつくりが描かれている
藤原実資の日記「小右記」では、「天下の嘆く所」と豪華絢爛ぶりを非難している
正門の西門は楼門
建物は、寝殿造で内裏の清涼殿にみなして建てられた
四周に2つの池が掘られ、中島に釣殿があった
池に面して御堂・文堂があった
敷地の東半分に馬場、馬場殿があった
<里内裏>
70代 後冷泉天皇が高陽院を里内裏とされ中殿で崩御される
その後、71代 後三条天皇・72代 白河天皇・73代 堀河天皇・74代 鳥羽天皇・84代 順徳天皇・
85代 仲恭天皇の里内裏となり「累代の皇居」と称される
<発掘調査>
公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所により、数回の発掘調査が行われた
少なくとも南北約140mの広大な池だったとされ、平安京跡で発掘された庭園の池としては最大規模になる
池底が50から60cmと高く、奏楽を乗せた竜頭鷁首を浮かべたといわれる
苑池は2つあったとみられる
池のふちには玉石を敷き、複雑な形をしていた
池からは金粉蒔絵硯も発見された
池は4回改変され、その度に次第に縮小したといわれる
遺構は保存されず、株式会社ITP京都本社ビルやマンションが建設されている