藤原行成(ふじわらのゆきなり)は、平安時代中期の公卿
恪勤精励をもって一条天皇、執政 藤原道長の両方に信任されたといわれ、四納言の一人とされる
能書家として三蹟の一人とされる
<書道>
能書家として優れており、その筆跡は「権跡(ごんせき)」といわれる
小野道風・藤原佐理とともに三蹟の一人
和様の書道は、小野道風により始められ、藤原佐理に受け継がれ、行成により完成されたとされる
行成は、王義之の書を継承しつつも 小野道風の書を直接継承した
日記「権記」には、「夢の中で道風に会い書法を授けられた」と記されている
内裏の門や殿舎の額字を書いたり、屏風絵に和歌を書き込んだりした
行成の書の流派を「世尊寺流」と称される(行成の邸宅の一部に世尊寺が創建されたため)
<真跡 白楽天詩巻(白氏詩巻)(国宝)>
東京国立博物館の所蔵
<真跡 本能寺切(国宝)>
藤原行成が、鳳凰文の雲母刷(きらずり)のある4枚の唐紙に、菅原道真・小野篁・紀長谷雄の文書を記したといわれる
本能寺の所蔵
<真跡 後嵯峨院本白氏詩巻(国宝)>
正木美術館の所蔵
<曼殊院本古今和歌集(国宝)>
色変わりの染紙に、優美な和様書体で書写された古今和歌集の写本
藤原行成の筆といわれる
曼殊院の所蔵
<有職故実書「新撰年中行事」>
有職故実家として、宮中の各種行事において、その見識が優れていたといわれる
現存せず、散逸したといわれる
1998年(皇紀2658)平成10年
京都御所東山御文庫に所蔵されていた後西天皇の宸筆「年中行事」2冊が、「新撰年中行事」の写本であることが
逸文との照合等により判明した
<日記「権記」>
991年(皇紀1651)正暦2年から1011年(皇紀1671)寛弘8年までのものが残っており、これに1026年(皇紀1686)万寿3年までの
逸文が残っている
行成が公務に精励した様子や、貴族の日常が詳しく記されている
有職故実についても、当時の宮中を知る貴重な史料となっている
<歌道>
「大鏡」によると、和歌だけは少し劣っていたと記されている
「後拾遺和歌集」に1首初出であり、以降の勅撰和歌集に9首が採録されている
<行願寺>
一条天皇の勅願により創建され、藤原行成により扁額が記されたといわれる
<本能寺>
藤原行成が記した本能寺切(国宝)が所蔵されている>
<清水寺>
仁王門(重要文化財)の正面軒下に、藤原行成の筆といわれる「清水寺」の額が掲げられている
<曼殊院>
藤原行成が古今和歌集を写本したといわれる「曼殊院本 古今和歌集1巻(国宝)」が所蔵されている
<四納言>
藤原氏の同族間の激しい争いの中、最大権力者となった藤原道長の側近として公務に精励した4人の大納言
(源俊賢・藤原公任・藤原斉信)の一人とされる
藤原道長と同日に死去する
<清少納言>
親しく交流していたといわれ、「枕草子」にもたびたび登場する
清少納言の百人一首の和歌
「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」は、藤原行成に宛てたもので
これに対して、行成は
「逢坂は 人越えやすき 関なれば 鶏鳴かぬにも あけて待つとか」と返歌を返した
<世尊寺>
平安京左京一条大宮にあった外祖父 源保光の桃園第を邸宅としていた
その敷地内の一部分を寺院とし「世尊寺」と称された
1001年(皇紀1661)長保3年には、世尊寺供養を盛大に行い、社会的地位を示したといわれる