藤原行成(ふじわらのゆきなり)(Fujiwara Yukinari)

平安時代中期の公卿

生年:972年(皇紀1632)天禄3年
没年:1027年(皇紀1687)万寿4年12月4日
享年:56

父親:藤原北家 右近衛少将 藤原義孝
長男
母親:中納言 源保光の娘

官位:正二位
官職:権大納言

一条天皇の四納言の一人

世尊寺家の祖
書道世尊寺流の祖

 藤原行成(ふじわらのゆきなり)は、平安時代中期の公卿

 恪勤精励をもって一条天皇、執政 藤原道長の両方に信任されたといわれ、四納言の一人とされる

 能書家として三蹟の一人とされる

【藤原行成の経緯・歴史】

【藤原行成の文化活動】

 <書道>
 能書家として優れており、その筆跡は「権跡(ごんせき)」といわれる
 小野道風・藤原佐理とともに三蹟の一人
 和様の書道は、小野道風により始められ、藤原佐理に受け継がれ、行成により完成されたとされる
 行成は、王義之の書を継承しつつも 小野道風の書を直接継承した
 日記「権記」には、「夢の中で道風に会い書法を授けられた」と記されている
 内裏の門や殿舎の額字を書いたり、屏風絵に和歌を書き込んだりした
 行成の書の流派を「世尊寺流」と称される(行成の邸宅の一部に世尊寺が創建されたため)

 <真跡 白楽天詩巻(白氏詩巻)(国宝)>
 東京国立博物館の所蔵

 <真跡 本能寺切(国宝)
 藤原行成が、鳳凰文の雲母刷(きらずり)のある4枚の唐紙に、菅原道真・小野篁・紀長谷雄の文書を記したといわれる
 本能寺の所蔵

 <真跡 後嵯峨院本白氏詩巻(国宝)>
 正木美術館の所蔵

 <曼殊院本古今和歌集(国宝)>
 色変わりの染紙に、優美な和様書体で書写された古今和歌集の写本
 藤原行成の筆といわれる
 曼殊院の所蔵

 <有職故実書「新撰年中行事」>
 有職故実家として、宮中の各種行事において、その見識が優れていたといわれる
 現存せず、散逸したといわれる
 1998年(皇紀2658)平成10年
 京都御所東山御文庫に所蔵されていた後西天皇の宸筆「年中行事」2冊が、「新撰年中行事」の写本であることが
逸文との照合等により判明した

 <日記「権記」>
 991年(皇紀1651)正暦2年から1011年(皇紀1671)寛弘8年までのものが残っており、これに1026年(皇紀1686)万寿3年までの
逸文が残っている
 行成が公務に精励した様子や、貴族の日常が詳しく記されている
 有職故実についても、当時の宮中を知る貴重な史料となっている

 <歌道
 「大鏡」によると、和歌だけは少し劣っていたと記されている
 「後拾遺和歌集」に1首初出であり、以降の勅撰和歌集に9首が採録されている

【藤原行成ゆかりの地】

 <行願寺
 一条天皇の勅願により創建され、藤原行成により扁額が記されたといわれる

 <本能寺
 藤原行成が記した本能寺切(国宝)が所蔵されている

 <清水寺
 仁王門(重要文化財)の正面軒下に、藤原行成の筆といわれる「清水寺」の額が掲げられている

 <曼殊院
 藤原行成が古今和歌集を写本したといわれる「曼殊院本 古今和歌集1巻(国宝)」が所蔵されている

【その他】

 <四納言>
 藤原氏の同族間の激しい争いの中、最大権力者となった藤原道長の側近として公務に精励した4人の大納言
(源俊賢・藤原公任・藤原斉信)の一人とされる
 藤原道長と同日に死去する

 <清少納言
 親しく交流していたといわれ、「枕草子」にもたびたび登場する
 清少納言の百人一首の和歌
 「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」は、藤原行成に宛てたもので
 これに対して、行成は
 「逢坂は 人越えやすき 関なれば 鶏鳴かぬにも あけて待つとか」と返歌を返した

 <世尊寺>
 平安京左京一条大宮にあった外祖父 源保光の桃園第を邸宅としていた
 その敷地内の一部分を寺院とし「世尊寺」と称された
 1001年(皇紀1661)長保3年には、世尊寺供養を盛大に行い、社会的地位を示したといわれる


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