小早川秀秋(こばやかわ ひであき)(Hideaki Kobayakawa) 京都通メンバ
桃山時代の武将、大名

生年:1582年(皇紀2242)天正10年
没年:1602年(皇紀2262)慶長7年10月18日
享年:21

父親:木下家定(きのしたいえさだ)(豊臣秀吉の正室 北政所ねねの兄)
五男
母親:雲照院(杉原家次の娘)
正室:古満姫(宍戸元秀の次女、毛利輝元の養女)

幼名:辰之助(しんのすけ)
別称:金吾殿(きんごどの)、丹波中納言
改名:木下辰之助・羽柴秀俊・小早川秀俊・小早川秀秋・小早川秀詮(ひであき)

丹波国亀山城城主、筑前国名島城城主、備前国岡山城城主

出身:近江国長浜
菩提寺:瑞雲院

 小早川秀秋(こばやかわ ひであき)は、桃山時代の武将、大名

 3歳のとき、豊臣秀吉の養子になり、北政所ねねに育てられ、10歳のとき、毛利元就の三男 小早川隆景の養子となる

 関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城の戦いでは、徳川家康の家臣 鳥居元忠が籠城していた伏見城を攻め落城させる

 本戦では、しばらく傍観の末、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかり、西軍の諸将が連鎖的に離反し東軍が勝利する

 豊臣秀吉により丹波国亀山城が与えられており、
日本三大謀反といわれる源頼政足利尊氏明智光秀の反逆は、いずれも丹波国亀山(現在の亀岡市)から起こっており、
歴史を大きく変えた小早川秀秋の離反も4例目に値する

【小早川秀秋の歴史・経緯】



【小早川秀秋】

 <死因>
 関ヶ原の戦いで、小早川秀秋の離反で討死した大谷吉継・平塚為広・戸田勝成らの祟り殺されたといわれる

 最近では、アルコール依存症による内臓疾患が死因といわれる


 <歴史を大きく変えた亀岡
 7歳のとき、豊臣秀吉により、丹波国亀山城亀岡市)10万石を与えられた

 日本三大謀反といわれる源頼政足利尊氏明智光秀の反逆は、 いずれも丹波国亀山(現在の亀岡市)から起こっており、
小早川秀秋の離反も4例目に値する

【小早川秀秋ゆかりの地】

 <亀山城
 7歳のとき、豊臣秀吉により、亀山城城主とされる
 1593年(皇紀2253)文禄2年
 羽柴秀秋により、5重天守に改装された


 <本圀寺塔頭 瑞雲院
 1602年(皇紀2262)慶長7年
 日求(にちぐ)により小早川秀秋の菩提を弔うために創建される
 徳川家康により、小早川秀秋の祭祀料として寺領100石を与えたことにより「百石寺」とも称された
 本堂には等身大の小早川秀秋坐像、2人の従者の木像が安置されている
 小早川秀秋が伏見城の戦いで倒した鳥居元忠らが流した血が付いた伏見城の床材を転用した血天井がある
 小早川秀秋の石塔「瑞雲院殿前黄門秀巌日詮大居士」が建てられている


 <聖隣寺
 亀山城城主 羽柴秀俊(小早川秀秋)が息子の菩提を弔うため毎年、米2石を寄進した亀山五ヶ寺の一つ
 木造 毘沙門天立像(亀岡指定文化財)は、羽柴秀俊(小早川秀秋)が聖隣寺に移し安置したもの

 <大圓寺
 亀山城城主 羽柴秀俊(小早川秀秋)が息子の菩提を弔うため毎年、米2石を寄進した亀山五ヶ寺の一つとされる

 <宗堅寺
 亀山城城主 羽柴秀俊(小早川秀秋)が息子の菩提を弔うため毎年、米2石を寄進した亀山五ヶ寺の一つとされる


 <常寂光寺
 小早川秀秋ら大名の寄進により堂塔伽藍が整備され、日禛上人の隠退所が寺院にされる

 <松花堂庭園
 松花堂書院(京都府登録文化財)は、小早川秀秋の寄進


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