伏見城の戦い(ふしみじょうのたたかい)は、桃山時代の関ヶ原の戦いの前哨戦
徳川家康や主力武将たちが会津上杉征伐のため不在となったのを機に、
武断派の7武将から近江国へ追いやられていた石田三成が挙兵し、西国の諸大名や文治派の武将に呼びかけて、
大老 毛利輝元を総大将とする西軍を組織する
徳川家康の忠臣 鳥居元忠が留守を守っていた伏見城を西軍の大軍で取り囲み攻撃し、約2週間の攻防の末、落城する
石田三成は、1日で落城させ関東に向けて徳川家康を追い、会津軍と挟み撃ちにするつもりだったといわれる
約2週間の足止めとなり、西軍の展開が大きく遅れる要因となったといわれる
1600年(皇紀2260)慶長5年
伏見城城中で自刃した徳川軍の鳥居元忠ら約800人を供養するために、
徳川家ゆかりの寺院に、自刃した血痕が残る大広間の床板を天井にして祀られている
<養源院 >
本堂の左右と正面の3方の廊下の天井
<源光庵>
本堂の廊下の天井
<正伝寺>
本堂の廊下の広縁の天井
<興聖寺>
本堂の天井
<宝泉院>
書院の天井
<鳥居忠政>
鳥居元忠の嫡男
徳川家康は、鳥居元忠の忠義に応じようと、鳥居忠政に磐城平藩(福島県いわき資市)10万石を与えた
後に、出羽国山形藩(山形県)22万石に加増されている
<江戸城 伏見櫓>
徳川家康は、伏見城にあった血染めの畳を江戸城の伏見櫓の階上に置き、伏見城で戦った忠臣たちを弔ったといわれる
<精忠神社 畳塚>
明治維新の江戸城開城により、血染めの畳は、精忠神社(栃木県下都賀郡壬生町)(祭神:鳥居元忠)に埋納され、
畳塚がつくられた
<百萬遍知恩寺>
鳥居元忠の首は大坂の京橋にさらされるが、
京の商人 佐野四郎右衛門が「忠義の者を罪人と同じようにさらすとは無礼だ」と持ち去り、百万遍知恩寺に葬ったといわれる
<糸素縣縅二枚胴具足>
鳥居元忠は、伏見城の戦いで着用していたといわれる鎧
鳥居元忠との一騎打ちで討ち取った西軍の先発隊で雑賀衆鈴木家当主 鈴木重朝の手に渡る
鈴木重朝は、鳥居元忠の嫡男 鳥居忠政に返還したい旨を申し出たが、
鳥居忠政は「名誉とともにご子孫に伝えていただきたい」とお断りされたといわれる
2003年(皇紀2663)平成15年
鈴木家から大坂城に寄贈された
鳥居元忠の血染めの肌着だけは引き取り、
江戸時代の所領に創建した精忠神社のご神体とされた