鳥居元忠(とりいもとただ)(Mototada Torii)

鳥居元忠(とりいもとただ)は、戦国時代から桃山時代にかけての武将

生年:1539年(皇紀2199)天文8年
没年:1600年(皇紀2260)慶長5年6月
享年:62

父親:鳥居忠吉(松平氏の家臣)
三男

徳川家康の家臣

下総香取郡矢作藩(千葉県香取市矢作)の藩祖

出身:三河国碧海郡渡郷(愛知県岡崎市)
お墓:百萬遍知恩寺塔頭龍見院

 鳥居元忠(とりいもとただ)は、戦国時代から桃山時代にかけての武将

 幼い頃から徳川家康に仕える

【鳥居元忠の歴史・経緯】

【鳥居元忠ゆかりの地】

 <伏見城

 <百萬遍知恩寺
 塔頭龍見院にお墓がある

 <養源院
 本堂の着色杉戸絵 八面(重要文化財)
 鳥居元忠らの霊を慰めるために、俵屋宗達が描いたもの
 表の「波」と裏の「麒麟図」の2枚4面と、表の「唐獅子図」と裏の「白象図」の2枚4面

 血天井も残されている

 <血天井がある寺院>
 伏見城の守護を任せられ、敵の大軍に包囲されても最後まで自刃することなく戦い討死した徳川軍の約800人を供養するために、
血痕が残る大広間の床板を、天井に張り祀られている
 ・養源院
 ・源光庵
 ・宝泉院
 ・興聖寺
 ・正伝寺

【その他】

 <伏見城の戦い>
 会津の上杉景勝の征伐の出兵前に、伏見城において深夜まで酒を酌み交わしながら徳川家康から、
 「我々は勢力不足のために伏見には3000人しか残せず苦労をかける」と言われ、
 「もし大坂方の大軍に包囲された時には、城に火をかけ討死する他しかなく、天下統一のためには、一人でも多くの家臣が
必要になるので、この城に大勢を残すことは無駄になるので、一人でも多くの家臣を城から連れて出てほしい」 と、
既に討死を覚悟して答えたといわれる

 徳川家康は、「三河武士の鑑」と称する忠実な家臣の死を悲しみ、
 その功績により、長男 鳥居忠政を後に磐城平藩10万石を経て山形藩24万石の大名に昇格する

 鳥居元忠の孫 鳥居忠恒と玄孫 鳥居忠則とが、不手際を起こしたときも、鳥居元忠の勲功が大きいとして、
減封による移封で断絶を免れた

 <畳塚>
 伏見城の血染め畳は、江戸城の伏見櫓の階上に置かれ、登城した大名たちに鳥居元忠の忠実を偲ばせた
 明治維新により江戸城明け渡しの後、明治新政府より壬生藩 鳥居家に下げ渡され、
壬生城内にあり鳥居元忠を祭神とする精忠神社の境内に「畳塚」を築いて埋納された

 <ゆからぬ者>
 武田氏の滅亡後、徳川家康は、重臣 馬場信春の娘の捜索を鳥居元忠に命じる
 鳥居元忠が、娘は見つからなかったと報告したことで、捜索は打ち切られる
 その後、徳川家康は、その娘が鳥居元忠の本妻になったという話を聞き、「ゆからぬ者(万事に抜け目のない者)」と評したといわれる

 <大石内蔵助良雄>
 鳥居元忠の四男 鳥居忠勝(水戸藩士)の娘が、赤穂藩家老 大石良欽に嫁いでいる
 赤穂事件(忠臣蔵)において主君に忠死した大石良雄は、鳥居元忠の玄孫にあたる


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