平将門(たいらのまさかど)(Masakado Taira)

平安時代中期の関東地方の豪族

生年:不詳
没年:940年(皇紀1600)天慶3年2月14日

父親:平良将(たいらのよしまさ)(高望王の三男)

第50代 桓武天皇の5世子孫

通称:相馬小二郎

出身:下総猿島郡石井

 平将門(たいらのまさかど)、平安時代中期の関東地方の豪族

 平氏の姓を授けられた高望王(たかもちおう)の三男 平良将の子
 第50代 桓武天皇の5世子孫

 関東8ヶ国の国府を攻撃し、各国司を追放して支配下におき、
 朱雀天皇に対して、自ら「新皇」と称して、下総国の亭南(現在の地は不詳)を王城とする

 朝敵とされ、2ヶ月後に藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された

【平将門の歴史・経緯】

【平将門】

 <評価>
 平安時代は、朝敵とされる
 武家社会では、崇敬の対象とされる
 明治時代には、逆賊視される
 戦後には、英雄化される

 <朝敵>
 朱雀天皇に対して、自ら「新皇」と称して、下総国の亭南(現在の地は不詳)を王城とする
 ふな橋を京の山崎、相馬郡の大井の津を大津になぞらえて、坂東(関東地方)に京に模した国家を樹立しようとしたといわれる
 左大臣・右大臣・納言・参議など文武百官を任命する

 朝廷は、諸社諸寺に怨敵退治の祈祷を命じる
 藤原忠文を征東大将軍に任命して、将門の乱の鎮圧に向かわせた

【ゆかりの地】

 <平将門の首塚(たいらのまさかどのくびづか)>
 東京都千代田区大手町1−2−1三井物産本社ビル傍
 平将門の首を祀っている塚
 「将門塚(まさかどづか)」とも称される
 伝承では、
 将門の首級は、平安京に送られ東の市 都大路で晒される
 3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる
 伝承地は数か所あり、いずれも「平将門の首塚」とされている

 <神田明神社(東京都千代田区大手町)>
 730年(皇紀1390)天平2年
 大己貴命を祀って創建される
 1309年(皇紀1969)延慶2年
 平将門の祟りといわれた疫病が流行する
 将門を葬った墳墓「将門の首塚」の近くにあった神田明神が、将門の霊を供養し疫病が沈静化したことから、
平将門が祭神として祀られる
 江戸時代では、将門神の崇敬も篤かったといわれる
 1874年(皇紀2534)明治7年
 明治天皇が行幸するにあたり、逆臣が祀られているのはあるまじきこととして祭神から外され、
 少名毘古那神が祀られ、将門神は境内摂社へ遷される
 1984年(皇紀2644)昭和59年
 将門を祭神に復帰させる嘆願が起き、NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」で機運が高まり、本社の祭神に復帰する
 摂社(支社)から本社へ復帰するというご利益が生まれる


 <膏薬図子の神田神宮
 この辺りは、平将門の首が晒された場所といわれる
 ここから江戸(首塚)まで首が飛んで行ったといわれる
 その後、この地に災厄が多く起こったので、平将門一族を処刑から救ったという空也上人を迎えて、
怨霊を鎮めて祀ったといわれる



 <東寺
 平将門の乱のときに、都の守護神として羅城門の楼上に兜跋毘沙門天立像(国宝)が安置された


 <遍照寺
 939年(皇紀1599)天慶2年
 朱雀天皇の勅命により、下総国(千葉県)で平将門の乱平定の祈祷をしたところ、霊験により乱が治まったといわれ、
東国鎮護のために成田山新勝寺を建立された


【怨霊伝承】

 平将門の首塚において「この地に対して不敬な行為におよべば祟りがある」という伝承がある

 <大蔵省仮庁舎>
 江戸時代には、酒井雅楽頭の上屋敷の中庭だったが、関東大震災によって損壊した
 関東大震災後の都市再開発として、跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとしたとき
工事関係者や大蔵省の職員、当時の大臣、早速整爾などが相次いで不審死されたことで、
将門の祟りが省内で噂され、省内の動揺を抑えるため仮庁舎が取り壊わされた

 <GHQによる撤去>
 第二次世界大戦後、アメリカ連合軍GHQが、丸の内周辺の区画整理のために、
障害となるこの地を撤去して造成しようとしたが、不審な事故が相次いだため、計画は取り止められた

 <史蹟将門塚保存会>
 バブル景気による超一等地にある首塚も残され、
近隣の企業により「史蹟将門塚保存会」が設立され維持管理が行われている
 周辺の再開発により損壊しないように、首塚と敷地全体に防護柵が付けられている

【その他】

 <将門記(まさかどき)(しょうもんき)>
 原名「将門合戦状(まさかどかつせんじよう)」
 作者不詳
 平将門の反乱事件(平将門の乱)を、将門の行動を中心に叙述した作品


 <今昔物語集>
 平安時代末期の説話集
 巻二十五第一話に将門の乱が記載されている


 <NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」>
 1976年(皇紀2636)昭和51年


 <成田山 新勝寺>
 平将門の乱のときに、朱雀天皇の勅命により、全国で平将門の乱平定の祈祷がされる
 寛朝僧正が、神護寺 護摩堂の空海作の不動明王像を持って東国へ下り、 海路にて上総国尾垂浜に上陸、下総国公津ヶ原で、平将門を調伏するための不動護摩の儀式を行う
 その功績により、成田山 新勝寺が東国鎮護のために創建された
 そのため、平将門や家来のの子孫、神田明神や筑土神社の氏子などは、
成田山に参拝すると平将門のご加護が受けられなくなるといわれ、参詣しないといわれる
 例年、NHK大河ドラマの出演者は、成田山の節分豆まきに参加しているが、
平将門が主人公の大河ドラマ「風と雲と虹と」の出演者は、豆まきへの参加を辞退している


 <浄蔵貴所
 940年(皇紀1600)天慶3年正月
 勅命により平将門の乱を調伏するため、延暦寺横川にあった首楞厳院(しゅりょうごんいん)で三七日(21日間)の
大威徳法を勤行し、乱を鎮め、降伏させた
 その時、平将門は弓矢を帯びて燃えさかる炎の上に立ちはだかったので僧兵らはみんな恐れたが
流矢の音が聞こえ、東を指して飛び去ったといわれる


 <天海
 平将門の地霊を、江戸の町と街道との出入口に祀ることで、街道から邪気が入り込むのを防ぐように図ったとされる

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